#090 渡鴉の置き土産(前)
名称:大藤政信の遺品
カテゴリ:特別なアイテム
コマンド:捨てる
『それを捨てるなんてとんでもない!』
大藤与七殿との模擬戦からしばらく経ったある日、私と五郎殿は相模国の中郡郡にある大藤家の屋敷を訪ねていた。
「お初にお目にかかります。此度当家の跡目相続のために手を尽くしてくださった事、何とお礼を申し上げればよいか…。」
招待側にもかかわらず下座からそう申し出たのは、今や名実共にこの家の女当主となった政信殿の妻、籠目殿だった。見た目は…何というか、普通である。
あの政信殿の事だから、怪しい色香を放つ熟女か、さもなくば与七殿の姉妹でも通じそうな幼妻を侍らせていたのだろうと当たりを付けていたのだが…ちゃんと(?)30~40代で華美な化粧もしていない、ブスとも美人とも評し難い平凡な顔立ちの女性だ。
正直、エロの権化みたいなのを想像していたのでまあまあ拍子抜けだった。
「式部丞(政信)殿がわたくしに知行や屋敷を遺してくださったお陰で…与七殿が元服するまで不自由無く暮らす事が出来そうです。」
「知行のやり繰りに不安や不都合はございませんか?私に出来る事があれば…。」
大藤家の『郡代』という役職は、一般的な領主とは少し事情が異なる。ざっくり言うと、北条本家から一帯の統治を委任されているに過ぎないのだ。領内の村々から年貢米の取り立ては行うが、それらは全て北条本家の預かりになる。
じゃあ郡代の収入はどうなるのかと言えば、北条本家から銭で支給される仕組みになっている。少なくとも形式上は「北条に従っているだけ」の小領主に比べても、絶対的な上下関係に組み込まれていると言えるだろう。
仮に年貢米のピンハネや過大徴収を目論んだとしても、成功する見込みは極めて低い。何せ北条は直轄領から国衆の所領まで定期的に検地を行っているから、どこの田からどれだけの年貢米が取れるかほぼ完璧に把握している。それに、内政に不満がある領民は目安箱に訴える事も出来るから、半端な不正行為は寿命を縮める結果にしかならない。
早い話、マジメに働いた方がお得なのだ。
ただ、政信殿は郡代の仕事に加えて、諸足軽衆の大将として従軍する役目も担っていた。まさか籠目殿にも二足の草鞋を履けとまでは氏政兄さんも言わないだろうが、諸足軽衆を維持するために関係者に付け届けをしたり、足軽を集めて小田原城に送ったり、といった仕事は引き続き求められるかも知れない。
「ご心配、かたじけなく…されど、式部丞殿がご存命の頃よりしばしばお役目の手助けをして参りましたので…大概の事はわたくしと屋敷の使用人で切り盛り出来るかと。」
見た目以上に気丈な返事に、私は少し首を傾げた。どうしてこんなしっかりしたお母さんがいるのに、与七殿はしょうもないバ…若武者に育ってしまったのだろう?
その辺りを何重にもオブラートに包んで尋ねてみると、困ったような笑顔が返って来た。
「恥ずかしながらわたくし、戦の事はまるで存じ上げません。式部丞殿も血生臭い話をわたくしの耳に入れるまいとしていた節がございまして…それゆえ与七殿が『武士とはかくあるべし』と仰っても、是とも否とも言えず…重ね重ね、お手数をおかけしました。」
籠目殿の言葉に、政信殿が彼女を伴侶に選んだ理由が少し分かった気がした。いや、実質他の選択肢が無かっただけかも知れないが…少なくとも政信殿が自分の奥さんを、有能か無能かという物差しで測った事は無かっただろう。
「本日お二人をお呼びしたのはお礼を申し上げるためと、もう一つ…こちらを受け取っていただきたく存じます。」
籠目殿の目配せを受けて使用人が持って来たのは、金粉で渡鴉をあしらった蒔絵の箱だった。
「式部丞殿からの最後の文で、跡目相続に決着が着いたらお二人に渡すように、と…武田勢と同陣している間にわたくし宛てで認められた、一連の文にございます。」
「それは…式部丞殿の形見では?左様に大切なものを、受け取る訳には…。」
心底戸惑いながら聞き返すと、籠目殿は少し寂し気な微笑みを浮かべて首を横に振った。
「わたくしがお二人に出来る謝礼はこの程度…どうかお受け取りいただきたく。わたくしは最早手に取らずとも諳んじられます。幾度も、幾度も…読み返しましたゆえに。今日よりはその思い出を縁に務めを果たして参ります。」
…訂正しよう。籠目殿は政信殿の妻に相応しい…いや。
政信殿の妻は、籠目殿以外に有り得なかったのだ、と。
郡代に関する説明文はあくまで一般論で、北条の『代官』には取り立てた年貢米の一定割合をそのまま自分の取り分に出来る武士もいたようです。
ただ、(一定の)自治が保証されている国衆や御一家衆と異なり、所領の統治に相当な制限があった事は間違いないと思われます。




