#009 スパルタ父が孫に甘くなるのはよくあるパターン(後)
作中でうまく説明を挟めなかったのでここで説明させていただきますと、北条幻庵は北条早雲の息子で小田原北条氏の長老的存在です。
微妙にめんどくさい仕事や扱いの難しい人材の世話を請け負ってくれる、目立たないけど頼りになる存在だったようです。
「いかがにございましょう。ここは一つ、この貞春の膝に頭を預けてみては…?」
貞春様は善意100パーセント、悪意なんてこれっぽっちもございません…と言わんばかりの顔つきで北条氏康に提案した。その気持ちに噓は無いのだろう…が、そこに打算とリスクが潜んでいる事を私は知っている。
貞春様はこれと見た人間を半ば強引に『お世話』して、実の子供のようにデロッデロに甘やかす行為に快感を覚えるという厄介な性質を持っている。今回は、私に対して躊躇いなく頭を下げた父上に庇護欲を搔き立てられたのだろう。
しかし…それで父上のストレスが解消される代わりに、威厳に満ちた壮年男性の赤ちゃんプレイを見る事になるのかと思うと、もろ手を挙げて賛成も出来ない。
「くっくっく…はっはっはっはっは…。」
父上の精神的健康と社会的地位のどちらを優先すべきか、私が真剣に悩んでいると、可笑しくてたまらないと言わんばかりに肩を震わせながら、父上が顔を上げた。
「こいつは筋金入りだ。この俺に情けをかけようたあな。」
「あ、あの父上。貞春様は父上を憐れんだとか、そういった事では…。」
父上の笑顔がかえって恐ろしい。
必死で取り繕おうとする私に、父上はゆるゆると首を横に振った。
「安心しな、怒ってやしねえ。貞春尼殿、気持ちは有難えが…俺が頭を預ける女性はこの世に一人と決めてんだ。」
「え…ち、父上、つかぬ事をお伺いしますがその女性は…?」
期待と不安を感じながら、慎重に確認する。父上は精力旺盛で、私には腹違いの兄弟姉妹がゴロゴロいるので、二号さん三号さんに『本命』がいるのではないかと不安になったのだ。
「ああ?お前のかあちゃんに決まってんだろうが。…言わせんな、こっ恥ずかしい。」
私の母――つまり今川家から迎えた正妻こそ最愛の女性である、と明言されて、驚くやらほっとするやら…。
いつもの厳粛な面持ちに戻った父上に、なんと声をかけたものかと逡巡していると、私の斜め後ろ…貞春様がいる辺りから、くすくすという上品な笑い声が聞こえた。
「これは…わたくしの出る幕は無いようにございますね。代わりと言っては何でございますが、茶を点てる支度を始めてもよろしゅうございますか、奥様?」
「…ええ、お願いするわ。」
ソツなく最終決定権を私に投げてくれた貞春様に内心で感謝しながら、許可を出すと、貞春様は竜王丸を抱っこした侍女を伴って部屋を出ていった。
「上総介(氏真)殿の妹御が、下人(使用人)同然の振る舞いたあな。手前の立場を弁えてるとも言えるが…お梅の具合はどうだ?」
「!…気力は十二分に。ただ、立ち座りが不自由になって来たようで…そろそろ侍女頭を引き継ぐべきかと、相談しております。」
父上が、私の侍女頭の事情まで覚えていた事に驚きながら返答する。
お梅は私がこの世に第二の生を受けて以来、身の回りの世話をする側付き侍女のリーダーだ。当時すでにそこそこ高齢だったが、年齢相応の知識と不相応な手際の良さで立派に務めを果たして来てくれた。
もっと長期間侍女頭を務めてくれるものと思っていたが、それは現代日本の中高年を基準にした私の思い込みによるものだった。早い話、掛川城から北条領に逃げ込んだ頃から、お梅は体調を崩して寝込みがちになっているのだ。
今の所貞春様が色々な業務をなあなあで掛け持ちしてくれているから問題になってはいないが、どんなに有能でも貞春様は一人しかいないのだから、早めに侍女頭の後任を決めておくべきだろう。
幸いお梅も世代交代に異論は無いし、候補者は複数いるから、問題は彼女たちを昇格させた穴を埋める新人の採用か。
「…それで、どうだ?上総介殿は首をタテに振ってくれそうか?大平城を引き払うって話に、よ。」
仕事モードに入りかけていた私は、父上の質問に我に返った。
「戦局が困難である事、上総介殿が誰よりもご存知かと…されど父上の仰る通り、大義名分を損なう不安もございますゆえ…易々と肯ずるには至らないかと。」
「まあ、俺が城主でも渋らあな。大平城を丸ごと破却するって訳じゃねえ、当面は幻庵殿の預かりとして、機を見て上総介殿に戻ってもらうって腹積もりだが…埒も無え話に付き合わせて悪かった、茶を飲んだら退散する。」
「まあ、忙しないことで…折角お越しいただいた事ですし、何か召し上がってくださいませ。」
私がそう言うと、父上はポカンとした表情になって瞬きを繰り返した。
「…あー、いいのか?馳走になってもよ。」
「私共は日頃より父上や幻庵殿の世話になっておりますゆえ…父上のご心労を多少なりとも和らげる一助となれば、と…。」
そんなに変な事を言っただろうか?と首をかしげていると、父上は一瞬だけ「ふはっ」と朗らかな笑顔を浮かべた。
「そう言われりゃあ無碍には出来ねえ。ご相伴に与るとするか。」
やがて戻って来た貞春様がお茶の準備を始めると、私はその時間を使って厨房の厨人に軽食を作ってもらった。
父上は軽食を噛み締めるように平らげると、「また来る」とだけ言って小田原城に帰っていった。
(あんなにリラックスした父上、今まで見た事あったっけ…?)
そう思ったのはその日の夜、寝床に入ってからの事だった。
次回から武田の勢力下にある駿河の様子をお届けする予定です。