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#082 模擬戦に備えよ!(後)

勝兵は先ず勝ちてしかる後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いてしかる後に勝を求む。

――『孫子』より抜粋。

「早川殿、お久しぶりにござる。この左馬助(さまのすけ)、此度の模擬戦(ためしいくさ)にて軍監のお役目を賜り…挨拶に罷り越しましてございます。」


 小田原城下町の中心部から離れた野原。そこに張られた陣幕の中で、床几(しょうぎ)に腰掛けた北条家宿老、松田(まつだ)憲秀(のりひで)が深々と腰を折る。

 向かいで同様に床几に腰掛けていた女性――早川殿は挨拶を返すと、仏像のような穏やかな表情で憲秀を見つめ返した。


「まあ、模擬戦の軍監に左馬助殿を充てられるとは…左京大夫殿の意気込みが目に見えるようでございます。そのお心遣いに恥じぬ模擬戦をお目にかけると、左馬助殿からお伝えいただきたく…。」

「承知仕った。…時に早川殿、模擬戦の日取りでござるが…城の軍配者が改めて占った所、四日早める…即ち、明明後日(しあさって)執り行うのが良い、との結果が出ました。…異存はござらぬか?」


 突然の日程変更。常人であれば取り乱してもおかしくない通告だった、が…。


「無論、ございませぬ。一朝(いっちょう)(こと)()らば何を置いても馳せ参じるのが武家の心構え。当家は既に人数(へいたい)を調えておりますれば…与七殿も同様にございましょう。よもや、まだ陣触を出していないから待ってくれ、などと…武士(もののふ)にあるまじき詫び言を仰るとは思えませぬ。」

(やはり貴殿の(はかりごと)にござったか…幼い頃から底知れぬお方と思うておったが…いつの間にか、父君(うじやす)に劣らぬ策士に成長遊ばされたようじゃ。)


 一見謀略とは無縁の笑顔を見せる早川殿に愛想笑いを返しながら、憲秀は背筋に流れる冷たい汗を感じていた。


「そういえば…早川殿は時節に応じて北条家中のお歴々に付け届け(贈り物)をなさっておいでですな。」

「今や当家は北条と一蓮托生。日頃のご厚情に御礼申し上げるのは当然の礼儀にございます。」


 そうして築いた人脈(コネ)を、事あるごとに有効活用している訳だ。…皮肉混じりに言おうとした憲秀は、すんでの所で押し黙った。

 自身の今の務めは模擬戦の結果に異存や遺恨が残らないよう調整する事だったし、付け届けを貰っているのは憲秀も同じだったからだ。


「ところで…あの者達は一体?」


 憲秀が上半身を捻って視線で示したのは、陣幕の外…模擬戦開催予定地で草刈りや丘陵の造成など、大規模な土木作業に勤しむ百姓町民達の姿だった。


「早川殿のためなら、エイ、エイ、応!」

「「「「「エイ、エイ、応!」」」」」

「も一つおまけに、エイ、エイ、応!」

「「「「「エイ、エイ、応!」」」」」


 見覚えのある毛むくじゃらの男が、普請(ふしん=工事)の音頭を取っている。


「模擬戦を執り行う場が全くの手付かずでは見苦しいだろうと思い、『手入れ』をさせていただこうかと…費用は私が賄う旨、左京大夫殿のお許しはいただいております。」


 しゃあしゃあと(のたま)う早川殿に合わせて、陣幕の隅に控えていた侍女が憲秀に書状を手渡す。

 成程、手続き上の問題は無い。無い、が…『これ』は『手入れ』の域を大きく超えているのではなかろうか?


「申し遅れましたが…拙者はこれより大藤家の屋敷にも参りまする。この有様を(つまび)らかにする事もあろうかと存じますが…?」


 思わず身を強張(こわば)らせながら、憲秀はそろそろと探りを入れた。

 『不都合な真実』を知った自分を、早川殿はどう遇する積もりなのか。まさか無警戒に現場を見せておいて、口を封じるなどという暴挙に出るとも考えにくいが…。


(何かと引き換えに口止めを求められれば、軍監の役目上断らねば…。)

「左馬助殿の心配はごもっとも、なれど…案ずるには及びませぬ。与七殿に何を問われようと、気兼ね無くお答えください。」

「…よろしいので?」


 憲秀が聞き返すと、早川殿は相変わらず真意の読めない微笑みを浮かべながら頷いた。


「この模擬戦はあくまで…与七殿が志す『正道』と、御父君が貫いて参られた『邪道』の優劣を競う催し。されど、その『正道』を貫き通すために何が必要か…ご自身でお気付きにならねば模擬戦を執り行う甲斐が無いでしょう。それゆえに…私も必要以上に手の内を隠す事はいたしません。大概の事は『調べれば分かる事』でございます。」


 早川殿の言葉に、憲秀は肌が粟立(あわだ)つような錯覚を覚えた。『一人前の武士を自称するなら、誰かに言われなくても自分で調べろ』…早川殿はそう言っている。

 模擬戦はもう始まっているのだ。


「それは…確かに…仰せの通りにございまするな。では、拙者はこれにて。」


 床几から立ち上がった憲秀は、黙って頭を下げる早川殿に背を向けて陣幕を後にする。


(参った。御屋形様からは予断を差し挟む事無く役目を果たすようにと申し付けられたが…早川殿が負ける有様が全く思い浮かばぬ。)


 それならそれで、大藤与七の独立に伴う事務手続きが不要になるのだから良いか。

 既に模擬戦が終わった後の事を考えている自分に苦笑しながら、憲秀は愛馬に跨り、その首を大藤家の屋敷へと向けるのだった。

念のため申し上げますと、主人公が生前軍事オタクだったとか、転生チートで指揮能力を得ているとか、そういった事実はございません。

合戦に関するノウハウは全て転生後に実地で習得したものです。

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