#072 完璧⁉スローライフ(後)
昔の人は言いました、「亀の甲より年の功」。
でも江戸時代に出来た言葉らしいです。
江戸時代に『老害』とけなされる老人はいなかったのでしょうか?
銅田赤留久納太郎でした。
すっかり陽が落ちた夜。私は昼に入った温泉を再び訪れていた。勿論入浴のためである。
入浴関連のアレコレを持った百ちゃんを連れて、月明かりと松明を頼りに温泉を目指していると、先客が見えた。
「…本城御前様?」
お互いの顔がはっきり見える距離まで近付いてから声を掛けると、乳白色の温泉に浸かっていた母上が微笑み返した。
「あら結、今晩は…ところで『それ』はどうしたの?虫に食われたのかしら。」
反射的に首元を隠す。
無我夢中ではっきりとは覚えていないが、五郎殿に首周りを攻められたような…。
「虚言よ。相変わらず仲睦まじいようで、安心したわ。」
…やられた。
「お戯れも程々にしてくださいませ。」
「御免なさい、実の娘に『本城御前様』なんて呼ばれたものだから、つい…紬殿はもうお眠りでしょう?」
私に気を使ってくれているのか、個人的なワガママなのかは知らないが、今は『母上』と呼んでいいようだ。
「では『母上』、お邪魔します…。」
一言断ってから肌着を脱ぎ、かけ湯で全身を念入りに清める。…汗やら何やらが体のあちこちにべったり付いている自覚はあったので。
「夜もお入りになるとは…ここの湧湯が左様にお気に召しましたか?」
ようやく温泉に入り、母上の隣に腰を下ろす。
夜空に輝く月は満月までもうちょっと、といった丸みを帯びており、その分光量が控え目になっているのか、星空もよく見える。
「ええ、毎晩でも浸かりたいくらい…分かっているわ、それは難しいと。でも…ひと月に一度は来ようかしら。」
「母上を労う一助となれたのであれば、これに勝る喜びはございません。」
定型文的な返事をすると、母上は「ふふふ」と笑ったが、その声はどこか寂しそうだった。
「本当に…本当に立派になったわね。今川に輿入れしてからも奥向きの事で大きな揉め事が耳に入って来なかったから、恙なく務めを果たしているのだろう、と思ってはいたのだけれど…小田原城の奥向きも蘭が請け負ってくれた事だし…わたくしの出る幕は最早無いのかもしれないわね。」
「さ…左様な事は!」
予想以上に弱気な発言に驚きながら、母上の顔色を窺う。
白髪交じりの頭髪、皺だらけでも絶える事の無い微笑み。昼間と変わりない筈のそれらが、どこか頼りなく見える。
「ふふ…御免なさい、気弱な事を言って。大事無いわ、わたくしには大聖寺(氏康)殿との約定があるから。でも、この老骨にまだ役立てる事があるのなら…聞かせて頂戴。」
それは老いた母の懇願なのか、私の迷いを見抜いたがゆえの口実なのか、判然としなかったが…いずれにしても、その誘いを拒む理由は、私には無かった。
「現状に甘んじたままで本当に良いのか…それが貴女の今の悩み?」
私の取り留めの無い告白を聞き終えた母上に聞き返されて、小さく頷く。
「はい、それから…上総介様ご自身も、己の境遇に思う所があるのでは、と。国境の一件といい…。」
実はこの宿に泊まるのは今回の旅行で二回目だ。
当初の予定では箱根で一泊、それから伊豆の三島大社を訪問する予定だったのだが、国境の関所で待ったをかけられ、そこで五郎殿が関所通過の許可を得ていない事実が判明した。
押し問答の末に箱根に引き返して、旅程を変更して今日に至る訳だが…あの五郎殿が事前の根回しなしで関所を通過しようとするとか、どう見てもこちらに非があるのに中々引き下がらないとか、どうも引っ掛かる言動が多かった。
「貴女はどう思っているの?今の暮らしを…。」
母上の問い掛けに、少し考えてから口を開く。
「不仕合せとは、口が裂けても言えません。疫病や飢饉とは無縁の地で、小田原城の母君や兄上に見守られながら、夫と共に子を育む…満ち足りた日々。されど、上総介様の大望が叶えられぬまま過ごす日々が…時折、歯がゆくもあります。」
「そう…そういえば大聖寺殿は何か仰っていたのかしら?上総介殿について…。」
「え?大聖寺殿は、確か…『上総介殿は、一国の主の器じゃなかったかも知れねえが…いつまでも早川郷で燻ってるタマじゃねえ。いつか、そんじょそこらの英雄豪傑には逆立ちしたって出来ねえような…とんでもねえ事をやり遂げる、そんな気がして』…母上?」
私が父上の言葉をリピート再生していると、母上はうつむいて肩を震わせ始めた。
「…ッ、ふ、くく…御免なさい、余りにも口ぶりが大聖寺殿に似ていたものだから…タマ、ですってふふ、ふっくくく…。」
母上の泣き笑いのような声にどうしたものかとオロオロしていると、当の本人は自力で笑いを引っ込め、目尻を拭った。
「そう…大聖寺殿はそう仰ったのね。ならば…お二人を信じてみてはどうかしら。上総介殿と、大聖寺殿を。」
二人を信じる。
それはつまり…五郎殿がここで『終わり』にはならない、と信じるという事。
「話してくれて有難う、お陰で楽しみが一つ増えたわ。…貴方達の事、微力ながら見守らせてもらうわね。」
心なしか活力を取り戻した顔付きで、母上は温泉から出て行った。
残された私は、もうすぐ満月になろうとする月をじっと見つめていた。
主人公の記憶力が滅茶苦茶良いのにはそれなりの理由があります。
まだ十分固めきっていないのですがいずれ明確にお示し出来ると思います。




