#069 (若)獅子と(元)麒麟児(後)
氏真のターン!
罠カードをオープン!
愛馬に跨り、少数の供回りを従えて小田原城の大手門をくぐった今川氏真は、固い表情のまま早川郷への帰路に就いた。
その胸中を占めるのは憤怒と諦観――
(相模国内通交免状、か…思ったより早く手に入ったのう。)
――ではなく、安堵と達成感だった。
(これで何時でも何処にでも参る事が出来る…相模国内であれば、じゃが。しかしこれを用いれば、他国に身を寄せる際に一層やりやすくなるであろう。)
今日氏真が氏政と面会したのは、再び戦場に出してもらえるよう懇願するためなどではない。
相模国内通交免状…即ち、相模国内における行動の自由を確保するためだったのだ。
(左京大夫殿の心変わりなど、毛の一筋程も期待していなかった…と言えば嘘になるが。大聖寺殿の薫陶を受けた以上、易々と前言を翻すまい。であれば次に儂が成すべきは…早川郷から別の地へ移る事であろう。)
氏真は義兄を恨んでなどいない。東海道三か国の主から転落した身からすれば、それ以上の版図を切り盛りする手腕に尊敬の念すら抱いている。
『しかし』そして『だからこそ』。氏真は氏政を欺いた。
一向に参陣を許してもらえない現状にしびれを切らし。氏政の都合もわきまえずに面談の約束を強引に取り付け。感情のままに暴発する寸前の所を氏政にぐうの音も出ない正論でやり込められた。…小田原城内の人間にはそう見えた筈だ。
(これで儂が早川郷に逼塞しようが、相模国内で物見遊山に耽ろうが、嗤う者はあれど動向に気を揉む者は現れるまい…未だ我が下に残る忠臣の心の内は測りかねるが。)
今川氏真は、今川家の再興を諦めた事など一瞬たりとも無い。たとえ家臣全員から見放され、着のみ着のまま乱世に放り出されたとしても、最期の瞬間まで抗い抜く――そう覚悟しているのだ。
「いや、やはり…奥には付いて来て欲しいのう。」
「はっ?」
すぐ横を歩いていた供回りが思わず聞き返した事で、氏真は我知らず独り言を漏らしていた自分に気付いた。
「ああ済まぬ、少し物思いに耽っておってな…気にせずとも良い。」
「さ、左様にございますか…。」
恐る恐る主から視線を逸らす供回りを見て、氏真は若干の罪悪感を覚えた。
(無理もないか…相応に腕の立つ主が談判にしくじって帰宅する途上、粗相一つで首が飛ぶやも知れぬと、怯えておるのであろう。本心を明かす訳にも行かぬし、辛抱してもらう他無いが、さて…。)
二度と余計な独り言が漏れないよう唇を引き締めながら、氏真は思考を次の段階へと進めた。――問題は、『次に誰を頼るか』なのだ。
(甲斐武田に詫びを入れ、駿府を安堵してもらう…一見手っ取り早いが、塩留で恨み骨髄の信玄は儂を許すまい。儂と竜王丸は斬首、紬に孫を産ませて今川を乗っ取る…それで終いじゃな。)
(越後上杉…戦には強いが国衆をまとめる力量を欠いておるため、従えた端から易々と調略されてしまう。没落したと見るや儂を格下のごとく扱う姿勢も気に食わぬし…第一領国が駿河から遠すぎる。)
(となると、残るは…義元の仇である織田と、今川を見限った徳川、か…。)
消去法的に導き出した結論に、氏真は小さく唸った。
織田は足利義昭を担いで率兵上洛に成功した実績があり、徳川も直近十年あまりで二か国の主に成長する勢いがある。その上、徳川と武田の関係は悪化の一途を辿っている、となれば…過去の遺恨を抜きにすれば、最も有力な候補と言えるだろう。
…父の仇と謀反人に頭を下げるという屈辱、親不孝を飲む事が出来れば、の話だが。
(…まだじゃ、まだ時期尚早…当面は北条の、左京大夫殿の油断を誘うため…行く当てを見失った迷い子のごとく振る舞いながら、諸国の情勢を見定めねば。)
本心を胸の奥に押し込めると、氏真は手綱を強く握り直した。
戦国武将のほとんどは日記をつけるという習慣が無かったので、『この時こう考えていた』みたいな心情は当人の動向や手紙のやり取りなどから推測するしかありません。
今川氏真が早い段階から他家への鞍替えを考えていたというのも筆者の想像に過ぎません。
実際には楽隠居を決め込んでいたのに、何かの拍子に野心がぶり返して突発的に鞍替えを決心した、という可能性も十分にあります。
臨機応変に対応する能力が無いと戦国武将は務まらないので…。
拙作の今川氏真は諦めが悪いキャラクターなので、このような心理描写になっています。




