#068 (若)獅子と(元)麒麟児(前)
相模の獅子 (ジュニア)vs駿河の麒麟児 (アラサー)、ファイッ!
…言い方ァ!
特に氏真が若作りしてる痛いヒトみたくなってる!
でもこのタイトルで行きます。
元亀三年(西暦1572年)五月 相模国 小田原城
本丸御殿の客間にて。北条家現当主付きの太刀持は冷や汗をかきながら唾を飲み、次の瞬間にはそれが『客人』の耳に入ってはいないだろうかと目を凝らした。
幸い下座の『客人』――御一家衆待遇の今川家当主、上総介氏真の視線は、上座に君臨する北条家現当主――左京大夫氏政に向けられており、太刀持は密かに安堵のため息を吐いた。
だが油断は出来ない。
氏真は自身に敵意が無い事を示すための作法として、太刀と脇差を自身の右脇に置いて正座している…にもかかわらず、一瞬でも目を離せば、すぐさま太刀を引っ掴み、目の前の氏政に斬ってかかる…そんな暴挙に出ても不思議ではない程の殺気を放っているのだ。
「戦場からお戻りの所に押しかけたる非礼、お詫び申し上げる。されど左京大夫殿に至急お伺いしたき儀がございますゆえ…。」
「懸念は先刻承知。先の戦に至って尚、着到定書も陣触も無い…その事を不服に思っておられよう。」
氏政の返答を聞いて、太刀持は同僚の間で飛び交う噂話の一つを思い出す。『今川上総介は馬上一騎が相応、一国一城の主は荷が重い』…おおむねそんな内容だ。
馬術、弓術、槍術、剣術、砲術、組討…実戦で用いられる武芸のおよそ全ての領域において、家中随一、いや日の本一と言っても過言では無い程の技量を、氏真は事あるごとに示して来た。
だが、一軍の大将としての戦績は芳しくない。
北条の将として出陣した戦で目立った功績を挙げた訳でもなし、そもそも北条を頼った経緯からして、重臣達を根こそぎ信玄に調略されてまともに戦う事も出来ずに駿河一国を放棄、掛川城に逃げ込んだというのだから、その指揮統制能力に疑問符が付くのも当然だ。
その武田とも、今の北条は友好関係にある。にもかかわらず将来の禍根となりかねない今川家を早川郷で養い続けている氏政の意図についても、様々な憶測が飛び交っていた。
いわく、先代(氏康)殿の遺言でやむを得ず養っている。いわく、万が一武田の武威が衰えた折に備えて、今川の血筋を確保している。…その中に氏真を一手の大将として評価する声は、無い。
氏政はそれを氏真に突き付ける積もりなのだろうか…。太刀持は固唾を飲んで二人の応酬を見守った。
「承知ならばなにゆえ…なにゆえ儂に着到定書を下さらぬのか。」
「では聞こう…今のご家中に『士分』と呼べる者が幾人おられる。」
氏政の淡々とした問いかけに、氏真は顔をこわばらせた。
「…手勢を預けるには士分が不足している、と…そう仰せか、左京大夫殿は。」
「お分かりであれば話が早い、屋敷に戻られよ。また用事があれば文を出す――」
「では、左京大夫殿の周りから幾人かお借りしたい。」
氏真がそう言った瞬間、太刀持は目の前の背中から放たれる殺気を幻視した。
「大藤式部丞(政信)からお聞きでは?士分であれ、牢人であれ、大将格の者を欲しておるのは当方も同じ…拙者の差配次第では、無理矢理にでも赤羽陽斎を取り立てる事も出来るのですぞ。」
「――ッ!」
氏政の落ち着き払った言葉に、氏真が一瞬腰を浮かせる。
太刀持は自らの役目を果たす時が来たかと鞘を握る手に力を込めた――が、その意気込みが報われる事は無かった。氏真が白い歯を食いしばって懊悩した挙句、脱力して元の姿勢に戻ったからだ。
同時に、二人から発せられていた殺気が消えるのを、太刀持は感じていた。
「相分かった…当面は早川郷で沙汰を待つ事としよう。ただ、『早川源吾』について、じゃが…江戸と往来するたびに手形を請うのは左京大夫殿にも手間であろう。通年の手形を賜れば、『早川源吾』の務めもやりやすくなると思うのじゃが…。」
「その件であれば…お主、例の物を。」
横に控えていた小姓は氏政の指示ですっくと立ち上がり、氏真に書状を手渡す。
訝しみながら書状を開いた氏真は、一瞬目を丸くした後、またも険しい表情を見せた。
「相模国内永年通交免状…これは…。」
「ご覧の通り。相模国の内であれば何時でも何処でも自由に参られよ。…相模国の内であれば。」
氏政が強調する言葉と、再び険しくなる氏真の顔つきに、太刀持はようやく主君の意図を悟った。
――相模国から出るな、と言っているのだ、氏政は。
「…左京大夫殿のご厚情、謹んでお受けいたす。『早川源吾』に命ある折は、何時でも文を寄越されよ…これにて、御免。」
怒気を押し殺すようにして太刀と脇差を掴み上げ、退出する氏真の背中が見えなくなると、先ほど氏真に書状を渡した小姓が氏政ににじり寄り、媚びるような笑みを浮かべた。
「流石は御屋形様、上総介殿の脅しにいささかも心を乱される事なく…。」
「世辞はそこまでじゃ…下がれ。」
決して大きくはないがよく通る声に、小姓は息を吞み、縮こまって平伏した後、逃げるように客間を出ていく。
太刀持は、身じろぎ一つしないまま下座を見つめる氏政の背中を見た。
坂東数か国を背負うその背中は雄大で…それでいて、どこか泣いているようにも見えた。
『相模国内通交免状』なる文書は寡聞にして聞いた事がありません。
ただ、氏政が氏真の行動を制限するとしたらこういう縛りをするだろうな、という妄想で書きました。




