#062 暗雲!スローライフ(後)
現存する資料を見る限り、北条氏康が死去するまでは今川氏真も北条軍の一員として前線に向かっていますが、氏康の死後、その動向は極めて不明瞭となります。
それは一体何故なのか…という疑問に、筆者なりの仮説を提示する回になりました。
「只今戻った。」
「お帰りなさいませ。…着到定書の件はいかに?」
夫の部屋で帰宅した五郎殿を迎えると、見るからに浮かない顔だった。
「相変わらずじゃ。左京大夫(氏政)殿は言を左右にしておいでで…言質を得る事は叶わなんだ。」
着到定書とは、大名家の傘下にある諸将に対して、事前の検地から負担し得る軍役を算出し、彼らが参陣する際に連れて来る兵員の人数や装備を規定するものだ。実戦で主流となる武器が変わったり、家臣の所領が増えたり減ったりするたびに発行、配布される。
北条は事あるごとに着到定書を配布する事で、領民に過度な負担がかからないよう配慮しながら、合戦に十分な戦力を揃えられるような体制を築き上げて来た。特に今月は北条氏康が亡くなって最初のお正月、外交方針の大転換もあって、どこの誰がどれだけの軍役を負担するのかは家中最大の関心事と言っても過言ではなかった。
その声に応えるかのように、氏政兄さんは次々に着到定書を送付しており、噂によれば宮城四郎兵衛泰業殿もとっくに受領している。…ちなみに泰業殿は武蔵国の小領主で、動員兵力は指揮官である当人含めて36名だそうだ。
その程度の…失言だった、北条家宿老、松田憲秀殿の十分の一前後の知行を賜っている泰業殿ですら着到定書を受け取っているのに、私の夫として御一家衆並みの待遇を受けている筈の五郎殿に軍役負担の通告が無いというのは明らかに異常だ。
何せ着到定書が無ければ、どれだけの兵員に、どれだけの武器を装備させて参陣すればいいのか見当もつかない。
私と五郎殿は当初事務手続きの不備を疑い、氏政兄さんから事務官僚に至るまで問い合わせたのだが、反応は芳しくなかった。それは今日になっても変わらなかったという事だ。
「やはり左京大夫殿は…儂を参陣させる積もりが無いのやも知れぬ。恐らく甲斐武田を慮っての差配であろう。我らを害する事はせぬが、功名を立てる機会も与えぬ、と…まるで籠中の鳥じゃな。」
苦笑する五郎殿に、私はかける言葉も無かった。
氏政兄さんが武田との関係修復を目指すに当たって、今川家は本来邪魔な存在だった。何かしら理由をつけて信玄に突き出すなり、強引に一族郎党抹殺するなりした方がラクだった筈だ。
それをせず、従来の地位を保障する代わりに…五郎殿が戦場に出て手柄を挙げる機会を奪う。武田との密約があるかどうか知らないが、氏政兄さんにしてみれば、これが精一杯の妥協点という事なのだろう。
勿論、五郎殿が戦に出なくて済むのは嬉しいが…どんなに武勇があっても戦場に出られなければ、戦功を立てられず、新しい所領も得られず、北条家での存在感は低下する一方だ。それはそれで将来困った事になりかねない…。
「やむを得まい、せめて本陣の末席にでも加えてもらえるよう嘆願を続けるとしよう…して、お主の悩みは?」
不意を突かれて驚く私に、五郎殿は少し得意げに笑って見せた。
「我らが夫婦となってもうすぐ二十年、お主の心の内も多少は察せる…儂の愚痴を聞いてもらったからには、お主の悩みも聞かせてもらいたい。」
五郎殿の気遣いに年甲斐もなく胸を高鳴らせながら、さっきまでの悩みを多少ぼかして伝える。
予知夢では家康が最終的勝利者となり、嫡男の『秀忠』が跡を継ぐ筈なのに、昨年元服した竹千代が名乗った諱は『信康』だった、これいかに…そんな感じで。
「ふむう…気掛かりは分かったが、さして気に病む事も無いのではないか?当の三河守(家康)など、元服した頃の名残が欠片も無いではないか。」
五郎殿に指摘されて気付く。
かつて今川家で養育されていた少年松平竹千代は、元服して『次郎三郎元信』を名乗った。
その後、義元殿の庇護の下で『蔵人佐元康』に改名。
しかし桶狭間の戦いの後、今川家から独立して間も無く、義元殿との縁を否定するかのように『家康』を名乗る。
そして駄目を押すように、姓を『徳川』に改め、朝廷から『三河守』の官位を得て…今の家康がある、という訳だ。
「存外、家康に倣って改名を繰り返す内にお主が夢で見聞きした名になるのやも知れぬぞ。」
成程、と私は頷いた。
考えてみれば、家康は現在信長と対等とは言い難い同盟関係にある。上位者から下位の相手に名前の一部を与える――いわゆる『偏諱』のルールの中には、上位者の仮名の一方を『上』にする、というものがあるから…信康の『信』は信長の『信』という訳だ。
確か家康は信長の死後、秀吉に臣従する事になるから…信康もその時『秀忠』に改名するのかも知れない。
「かたじけのう存じます。上総介様に打ち明けてようございました。」
「お主の憂さが晴れたのであれば、儂も嬉しい…その笑顔を見ていると、着到定書の件も些末事のように思えて来るのう。」
「ま、ちょ…声が高うございます。ご家中の耳に入ってはいかなる禍を招くか…。」
現代風に言えば「仕事よりキミの方が大事だよ」と言ってもらった訳だが…仮にも今川家の実質的当主がそんな態度では、家臣も不安になるだろう。
「おっと…お主に窘められては立つ瀬が無いのう。戯言じゃ、戯言…そういう事にしておいてくれぬか。」
「もう、お気を付けくださいませ。」
言葉に怒気を込めながら、私は頬が緩むのを抑えられずにいた。
この時の解釈が大間違いであった事を、私はもっと後になってから知る事になる。
当初は後半部分で、兄夫婦のイチャつきに尊みを感じてうずくまる同担歓迎カプ厨、貞春尼の様子を描写する予定でしたが、文字数が多くなりすぎたためカットしました。
尊みです、尊みではありません、悪しからず。