#006 大平城攻防戦(前)
今回は戦国史でも特に知名度の低い、大平城の戦いをお送りいたします。
例によって資料に乏しいため、妄想マシマシです。
元亀元年(西暦1570年)五月 駿河国 大平城
「かかれ!大手門を一息に突き破れ!」
武田の足軽大将が馬上から張り上げた声に呼応して、足軽が城塞へと攻め寄せる。
ここは駿河国の東端、大平郷を守る大平城。
城主は今川上総介氏真――由緒ある本拠、駿府を追われ、今は北条の庇護下にある亡国の主であるとともに、駿河国の完全支配を目論む武田にとって、一刻も早く排除したい存在である。
その居城は武田勢の接近を許し、初日の城攻めによって陥落の危機を迎えていた。
(昨年我らが小田原まで攻め寄せた動揺から、未だ北条は立ち直っておらぬ。我らが大平まで兵を進められた事こそ、その証。ここで上総介に腹を切らせれば、北条も武田との間柄を考え直すであろう。)
鉄炮の射程距離間際にあって、瞬時に心中で算盤を弾いた足軽大将は、大平城の大手門が勢い良く開いたのを見てほくそ笑んだ――が、その表情はすぐに当惑に変わった。
「手応えが無さ過ぎる…まさか、わざと――」
「うおおおおおおお!」
「ぬわあああああ⁉」
足軽大将の懸念を裏付けるように、城兵が鬨の声を上げながら大手門から飛び出し、空振りを食らった攻め手の隊列が乱れた。
「何をしておる!城兵は小勢ぞ!隊伍を組み直して…」
「大将っ、ここは一度退いた方が…。」
「何を申す!攻めておるのは我らの方…」
「!…御免!」
轡を並べて慎重論を述べていた側近が、突然主君を突き飛ばし――飛来した矢に肩を貫かれた。
「なっ…馬鹿な、鎧の隙間を射抜くなど…。」
足軽大将の疑問の答えは、すぐに氷解した。
「源五郎上総介、推参!首級頂戴いたす!」
空色の甲冑に身を包んだ将が、朗々たる声を上げながら、鹿毛の馬を駆って迫る。
それが足軽大将が最期に見た光景だった。
「退けい、武田の木っ端どもぉ!」
「上総介様の邪魔はさせぬぅ!」
角張った顔立ちに甲冑と、よく似た出で立ちの武将二人が、息の合った動きで持鑓を振り回して武田の雑兵足軽を追い散らす。
北条を頼って落ち延びた氏真に付き従った数少ない今川家臣、朝比奈甚内泰寄と朝比奈弥太郎泰勝の兄弟である。
「蒲原助五郎ここにあり!我と思う者は前に出よ!」
「岡部三郎兵衛尉ここにあり!死にたくなければ道を開けい!」
めいめいに名乗りを上げ、鑓を振るう武士たち。
対して、武田の兵も一部が態勢を立て直し、槍衾を構えようとするが――
ババアン!ババン、バン!
「ひいっ⁉」
「鉄炮じゃ、矢倉から…退けっ、退けぇ!」
絶妙なタイミングで、大手門の真横に建つ矢倉から鉄炮の斉射が浴びせかけられる。
「さすがは赤羽陽斎、見事な手際よ…殿はまだか⁉」
朝比奈泰勝が、僅かに焦燥の滲む声を上げた。
外郭での抵抗をあえて脆弱に見せかけ、本丸の大手門に迫った敵兵が身の守りを疎かにして前のめりになった瞬間を見計らって逆襲。態勢を立て直される前に敵前衛の指揮官を討ち取って城内に戻る…という氏真の作戦は、全将兵の連携と迅速な行動を前提にしている。
連携の方はともかく、城内に戻るタイミングを読み違えれば、総兵力で勝る武田勢に押し包まれてしまう。
「先程、攻め手の大将が落馬するのが見えた。きっと間も無く…お戻りじゃ!」
泰寄の言葉通り、右往左往する武田兵を押しのけるようにして、氏真が馬に乗ったまま戻って来る。
それを見た家臣たちは、逃げ惑う雑兵への追撃を打ち切り、素早く主君の周りを固めた。
「うむ、大儀!手筈通り、本丸に戻ろうぞ!」
「…待て!腰抜けの軟弱者め!拙者と一騎討ちせよ!」
氏真を呼び止めたのは、ついさっき氏真に狙撃され、肩を射抜かれた武田の武士だった。
「数多の重臣に背かれ、居城を失い…死に際を見誤って恥も外聞もなく生き延びた臆病者!また逃げるか!拙者と戦え!」
持鑓を杖代わりにして立ち、吠える武士に、氏真は馬の首を巡らせて、若武者のような快活な笑顔を見せた。
「手負いの容態で一騎討ちを挑む心意気、見事也!物言いあらば、次の戦場にて!養生せよ!」
あたかも、主君が目下の家臣を労うかのような台詞を残して、氏真は城内へと駆け戻っていった。
「…ぐっ、ぐぐっ、おのれえ…っ。」
一瞬だけ、氏真の威厳に打たれて呆然としていた自分自身に愕然とする武田の武士を残して。
元亀元年五月、武田勢の伊豆侵攻と並行して開始された大平城攻めは、初日の急襲失敗によって膠着状態に陥った。
やがて小田原城から北条の増援が到着、無用な交戦を恐れた攻城軍は撤退を選択する。
かくして、日本戦史の中でも格別に存在感に乏しい攻防戦は、特段の武勇伝を産む事もなくひっそりと終結したのだった。
今川氏真は掛川城を退去した後、北条の庇護下で軍事行動と無縁だった――というイメージが強いですが、実際には北条の指揮下で駿河奪還のために戦っていたようです。
派手な武勇伝が無い代わりに、間抜けなエピソードも残っていないので、前線指揮官としてはまあまあ優秀な部類だったのだろうと思われます。