#058 姫君は夢を見る(前)
かつては主人公→下座、氏康夫妻→上座だったのが、今や主人公→上座、娘→下座に…!
思えば遠くへ来たも…え?
前作の更新が止まっている?
…仰る通りです、いつか書きます。
…頑張ります。
父上と母上が見ていたのは、こんな光景だったのだろうか?五郎殿に続いて広間に入りながら、私はふと思った。
広間には既に紬がいて、下座から上座に向かって平伏している。あとから入室した私達二人は上座に座った。
「紬よ、よくぞ参った。面を上げよ。」
五郎殿の許しを得て、紬が上半身を起こした事で、私の目にも娘の顔がはっきりと見えた。
滑らかに光る漆黒の髪。日焼けもシミもシワも無い柔肌。
整った顔立ちの中でも、くりくりと大きな目、そして大きいけれどキュッと引き締まった唇が、内に秘めた気の強さ、或いは活発さを表現しているようだ。
端的に言って――可愛い。言うなれば、大輪の花のつぼみ。『将来は美人になるんだろうな』みたいな兆しがそこかしこに見える…!
そういえば、ついこの間引退した初代侍女頭のお梅は、紬が幼い頃の私とそっくりだと言っていたけれどどうだろう。戦国時代の鏡は現代のそれに品質が達していないので、自分で自分の顔を確かめる手立てが無いのだ。
「父上、母上。本日もご機嫌麗しゅう…。」
「うむ。今日呼び立てたは他でもない、お主の近況を、お主自身から聞いておきたくてのう。」
ともあれ、親子とは言えおろそかに出来ない挨拶を五郎殿と交わすと、紬は自分の近況を自らの口で語り始めた。
朝は早起きして短刀の稽古、朝食を摂ってから読み書き算盤の勉強、湯浴みと夕食を済ませたら予習復習に取り組み、眠くなってから寝床に入る、と…。
いや頑張りすぎ!国家資格試験直前の追い込み期間かってくらい追い込んでる!
数え六歳だよ?実質五歳だよ?
遊べっ…なまけろっ…それが許される年齢の内にっ…!
「ほほう…勤勉なる事この上なし、であるな。されど越庵先生によれば、夜分遅くまで灯台の明かりを頼りに読み書きをするは、近くは身を持ち崩す源となり、遠くは目を患う源となるという。うら若き身で生き急いでは、後の災いを招く事となろう。」
「…っははっ…面目次第もございませぬ…。」
褒められる事を期待していたのか、裏切られたような表情で紬が頭を下げている間に、五郎殿と私は目を見かわした。注意すべき点は指摘した、ここでバトンタッチだ。
「けれど紬…貴女は本当に立派だわ。私が貴女ほどの年の頃は、定められた読み書き算盤の稽古が終われば、後は遊び呆けていたものよ。」
「お戯れを。今川の御前様は博学多才、国を追われて窮せず、富貴にして驕らず…母上が幼き頃より勉学に励んでいた証にございましょう。」
自身の体験談を自虐的に披露する私に対して、紬は勢い良く顔を上げて否定した。
しかしその…何だ、そのスーパーウーマンは?
北条家の娘として恵まれた教育環境に置かれていた事は否定しないが…博学多才と言えるほど頭に自信がある訳でもない。嫁ぎ先が傾いて無一文同然で実家に戻って、コネで得た借金を元手に資産運用をして、どうにかそれなりの生活水準を維持している…というのが正確な所だ。
あれか?小田原城で紬の面倒を見ていた誰かがおべっかを使ったのか?
どうしよう、『お母さんも子供の頃は勉強はそこそこで遊んだりもしてたけど、それなりに立派な大人になれたから大丈夫。貴女ももっと気楽にやって。』みたいな感じでペースダウンしてもらおうと思ってたのに…。
「わたくしもいずれは母上のように、客人の接待、奥向きの差配など、全て独りでこなせるように…。」
「待ちなさい、紬…貴女は大きな心得違いをしている。自身の務めはおろか、身の回りの世話まで独りでこなす…そんな芸当が出来る者は、この世に一握りしかいないわ。私にも出来ない。」
驚愕に見開かれた紬の目を正面から見つめながら、しっかりと訂正する。
貞春様を通じて小田原城での紬の教育環境について聞いていたが…『何でも独りでやろうとする、侍女や女房の進言に耳を貸さない』…成程、こういう事か。
「私は、いいえ私達は…家中領民、侍女や供回り、下男下女の面々がいなければ日々の暮らしもままならない。身分が下の者にへりくだれ、とは言わないけれど…その事を肝に銘じておきなさい。」
…しまった、五郎殿が叱って私が褒めるという役割分担の筈が、結局お説教してしまった。
これ泣くんじゃないか…と後悔しながら紬の様子を見守っていると、体をプルプルと震わせていた紬が勢い良く頭を下げた。
「流石は母上!見事なる見識、痛み入りましてございます…己の寝食が大勢に支えられている事、肝に銘じます!」
「え、ええ…くれぐれも、無理をしない程度にね。」
「はい!これからも精進を重ね…いつか今川の益となる輿入れを果たして御覧に入れます!」
う、うん…まあ戦国武将の娘の親孝行と言えば、究極的にはそこに行き着くよ、ね。
しかしこれはチャンスかもしれない。やや強引だが…ちょっと探りを入れてみるか。
「そう。つくづく孝行だこと…時に、聞いておきたいのだけれど…どこそこに嫁ぎたいといった希望はあるのかしら?例えば――公方様(征夷大将軍)に、とか。」
実質五歳児でこんなに頑張れるものかなと不安になりましたが、埼玉県在住の某幼稚園児の友人にもなんか頭が良さそうな子がいたし、まあええやろとなりました。