#056 そして母になる(中)
貞春尼 が あらわれた!
コマンド?
小田原城でのお茶会を終えて、早川郷の我が家に戻ってすぐ。
五郎殿の妹――私にとっては年上の義妹になる――貞春様が私の部屋を訪れた。
「竜王丸殿と紬姫様について相談の儀があり、罷り越しましてございます。」
「相談?」
子供たちに何かトラブルでも起きたのか、と身構えた私は、貞春様が続けた言葉に、拍子抜けするような感覚を味わった。
「お二人ともすくすくと育っておいでにございます。竜王丸殿は自らのお気持ちを言葉で表し、父君…上総介(氏真)殿の真似をして馬術や武芸の真似事をしてらっしゃいます。紬姫様は小田原城の傅役から聞いた通り、勉学や武芸の稽古に余念が無く…その上近頃は風流を解するべく、庭を散策したり侍女や下人の話を聞いたりしておいでです。」
数え三歳の長男はわんぱくで元気そのもの。
その姉は相変わらず勤勉で優秀、と…いやあやっぱり育児経験がある人、しかも親族に子供の面倒を見てもらえるって素晴らしい。
「貞春様、ご報告かたじけなく存じます。貞春様のお陰で私の務めがどれだけ助かっている事か…引き続き二人の面倒をお願い申し上げます。」
半ば定型文的な報・連・相。それが終わったと胸をなで下ろして退出を促したものの、貞春様は下座からピクリとも動こうとしなかった。
「…貞春様?他に何かご用件が?」
「本日は御前様にお願いの儀がございます。どうか…紬姫様を褒めてあげてくださいませ。」
どくん、と心臓が跳ねた――なぜ?
嫌な汗が額に滲み出るのを感じながら、唾を飲んで喉を潤し、貞春様に問い返す。
「貞春様の事だから、その場で紬を褒めたものと思ったのだけれど…その上私が褒める必要があるのかしら。」
「無論、ございます。」
貞春様には珍しく、穏やかながら断固とした物言いに、私は思わずたじろいだ。
「わたくしは紬姫様の母ではございませぬゆえ…叱るにせよ褒めるにせよ、肝心要の折には御前様のお言葉が欠かせませぬ。どうかこの際、紬姫様を目一杯褒めて差し上げていただきたく。」
貞春様の悟ったような、それでいて寂しそうな微笑みに、私はしばし言葉を失った。
一体、どんな気持ち…或いは覚悟なのだろうか。お腹を痛めて産んだ子を喪い、実家に戻ってからは兄夫婦の子供を養育して…しかしその子供たちは自分の子供ではない、と一線を引いて接し続けるというのは。
「恐れながら御前様…紬姫様を厭うておいでではございませんか?」
…図星である。いや、嫌っているとか憎んでいるとかではないが…転生者(容疑)かつ主人公(候補)である紬に対して、どう接すればいいのか分からず、困っているのは確かだ。
「紬姫様が寸暇を惜しんで文武の稽古に勤しまれるのは、偏にお家のため…だけではございません。心より尊敬する母君に認めてもらいたい、と…そう念じておられるがゆえに励んでおられると、そうお見受けしました。」
もう何年前になるのだろうか、今川家に戻って来た直後と遜色の無い、抜き身の刀身を思わせる鋭い眼光で、貞春様は私を射抜いた。
「何卒、わたくしの願いをお聞き届けいただきたく…。」
「…貞春様の申し様、一々ごもっとも。ただ少し…少し猶予をいただいても?どのような体裁で二人を褒めるべきか、上総介殿と相談したいので…。」
義姉の進言に私が条件付きで同意すると、貞春様は穏やかな表情に戻りながら一言付け加えた。
「差し出がましい振る舞いとは先刻承知なれど…平にご容赦を。乱世の習いと言ってしまえばそれまでにございますが…親子がすれ違い、憎しみ合うような有り様は…二度と見たくはございませんので。」
武田信玄、義信親子の対立から始まった悲劇の渦中にあった人物の言葉は、想像以上に重く感じられたのだった。
戦国武士の子育てには一定のセオリーとして、授乳や身の回りの世話を実親が行わないというものがあったものの、『褒める』『叱る』『甘やかす』『厳しく接する』といった塩梅については家ごと、武士ごとに差異が大きかったようです。
武田信玄や斎藤義龍など、実際の心理は不明ですが実の父との確執が内紛にまでつながった例を見ると、お家の存続には家庭平和が第一条件だったのかも知れません。