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#051 北条氏康の遺言(本城御前編)

今回のメインキャストは北条氏康の正妻、瑞渓院です。

ただし『瑞渓院』は死後に贈られた法号なので、大多数の戦国女性と同様に本名不詳です。

拙作では本名を『(みつ)』、通称をその時々の立場、という形で使い分けています。

「それでは父上、わたくし共はこれにて…。」

「快癒を心よりお祈りしております。」


 娘二人――蘭と凛の姉妹が退出するのを自室の中央で見届けると、氏康は重い体を布団の中に沈めた。


「大層お疲れにございましょう。ゆ~っくり体をお休めくださいませ。」


 すぐ横にいた正妻――本城御前の言葉に、氏康は弱々しく息を吐く。


「これで…主だった連中には一通り…挨拶は済んだか…孫九郎(綱成)や幻庵殿には、手紙を書いた…取りこぼしは、無え筈だ…。」

「ええ、きっと大丈夫にございます。ですからもう…気を張る事はございませんよ。どうぞわたくしの膝に(こうべ)を預けてくださいませ。」


 そう言って枕元で両の膝頭を揃える妻に、氏康は抗う事なく後頭部を委ねた。


「あ゛あ゛~…極楽、極楽だ…。」

「まあ、お戯れを。まだ三途の渡しも越えない内に…。」


 咎めるような響きを含んだ声で本城御前が言うと、氏康は力なく笑った。


「この世に生を受けて五十と六年…士分の名門から地下(じげ)百姓(ひゃくしょう)に至るまで、幾人殺めて来たか見当も付かねえ。あの世で相応の裁きが待ってるに決まってら…。」

「ご安心ください。直ちに、とは申せませんが…身の回りの始末が終わり次第、お傍に参りますゆえ。」


 氏康はしばらく無言で胸を上下させてから、本城御前を見上げて口を開く。


「母ちゃん、頼みがある…辛抱出来なくなるまでで構わねえ、新九郎(氏政)の行く末を見届けてやってくれねえか。」

「…。」

新九郎(あいつ)は左京大夫の名に恥じねえ働きをしてくれてる。だが…俺を敬うあまり、手前が一端(いっぱし)の武士になったって自負を持てねえんだ。…叱ったり励ましたりしろとは言わねえ、ただ見守ってやってほしい…。」

「…わたくしが家中領民からどう評されているか、ご存知ですか?城内の奥向きや領民の暮らしに常日頃より心を砕く、慈悲深く寛大な女性(にょしょう)だ、と…心得違いも甚だしい。」


 本城御前の声から温度が抜け落ちると共に、その両手が氏康の首にかけられる。

 生死の境にあって、氏康は動揺した素振りも見せず、病床から妻の顔を見上げていた。


「ほんとうは、嫌で嫌でたまらなかった…貴方(あなた)が他の女性と一夜を共にする度に…わたくしより若い女房の腹が、貴方の種で膨らんでいくのを見る度に…何度恨んだ事か…何度呪った事か…。」

「俺を恨むのは一向に構わねえ、ただ…他の奴らは勘弁してやってくれ。腹違いとは言え、息子や娘達に罪は無えし…女房が俺に抱かれたのも、実家のためだ。…赦してやってくれ。」


 氏康の懇願を聞いた本城御前は、少しの沈黙を挟んでから両手を氏康の首から離した。


「この期に及んでなお…家中領民の父のごとく振る舞われるのですね。ご立派ですこと…。」

「すまねえな、性分でよ…代わりと言っちゃ何だが、俺に出来る事なら何でもする…聞かせてくれ、母ちゃんの願いを…。」


 氏康の言葉に、本城御前は悲しげに微笑んだ。


「それでは…百姓の夫婦(めおと)のように振る舞ってくださいませんか?わたくしは貴方を氏康様と呼び…貴方はわたくしを(みつ)と呼ぶ。…いかがにございましょう?」

「面白そうだ…なあ、満?」

「お呼びにございますか、氏康様?」

「へへ…満は幾つになっても綺麗だなあ…。」

「まあ、うふふ…氏康様ったら、お上手ですこと…。」


 二人の会話は切れ目なく続いた――が、それも部屋を夕陽が照らすまでの事だった。

 いつしか氏康は目と口を閉ざし、妻の膝枕の上で安らかな表情を浮かべていた。


「お休みなさいませ、氏康様…器用で、勇猛で、物ぐさで…けれど困っている方を見ると放っておけなくて…本当はわたくしやご兄弟、子供達を大切に思っているのに、ご自身の立場を慮って他人行儀に振る舞われた…不器用なひと。」


 本城御前は今にも壊れそうな微笑みを浮かべながら、氏康の額に刻まれた古い刀傷をそっと撫でた。


「誠に…今まで誠にお疲れ様にございました。最後の願い、確と承りましたゆえ…どうかごゆっくりお休みくださいませ…。」


 氏康の額に、数滴の(しずく)がぽたぽたと落ちる。

 やがて夕闇が、一組の夫婦を優しく包み込んでいった。

本編を書いていて自分でもビックリしたのですが、当初はこんなに愛の重い人物になる予定ではありませんでした。

戦国北条氏の歴代当主は総じて子沢山ですが、その全てが正妻との子供という訳ではありませんでした。

それでいて(少なくとも表立った)骨肉の争いは一度も起こっていないという点も、戦国北条氏の魅力の一つです。

ただ、氏康との間に少なくとも六人の子をもうけた正妻が、夫が別の女性と性交している事実を唯々諾々と受け入れられるものだろうか?と考えながら書いている内に『重い女』になってしまいました。

こんなしっとり展開は今後そうそう無いと思います。

多分。

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