#005 年上義妹、母性マシマシ(後)
貞春尼、賢者タイム。
“かあさま、かあさま”
――わたくしを呼ぶ声がする。
“かあさま、助けて…”
――愛しい我が子の、苦悶の声が。
“痛い、痛い…”
――ごめんなさい、許して――
「あかね…。」
貞春尼の部屋を出ようとしていた百は、布団に横たえたばかりの部屋の主が、予想以上に早く覚醒した事に少なからず驚きながら振り返った。
部屋の中心には、上半身を起こし、先程の狂乱が噓のようにぼんやりと中空を見つめる貞春尼がいた。
「ご無礼ながら、お部屋に運ばせていただきました。」
百が素早く踵を返し、膝を折ると、貞春尼は微笑みながら首を横に振った。
「いいえ、いつも有難う…今ね、朱音が夢に出たの。」
「彼岸から、手招きを?」
言葉を選ぶ百に、貞春尼はゆっくりと頷いた。
「今わの際と同じ、苦しそうで…わたくしも彼岸に渡って慰めてあげたいけれど…まだそうする訳にはいかないわ。あの日、そう誓ったのだから…。」
貞春にとって、朱音はいずれ今川と武田の橋渡しとなり得る宝であると同時に、政略結婚の相手――武田義信との愛の結晶だった。
嫁いだ当初は山に囲まれ、海の見えない甲斐国(山梨県)に息苦しさを覚えたものの、いつしかそれは安心感に変わっていった。
だが、それも義信が実の父――信玄に幽閉されるまでの事だった。
義信は無事なのか、自分や朱音はどうなるのか、武田と今川の盟約はどうなるのか…。
貞春が最も恐れたのは、盟約を維持するために別の男との結婚を強いられる事――ではなく、『謀反人の娘』となった朱音の命を断たれる事だった。
愛しい娘を、我が身に代えても守り抜く。その決意は、義信の死によって一層深まった。
神経をすり減らす日々を終わらせたのは、実兄の氏真だった。武田との盟約を棒に振ってまで母子共々駿河に引き取ってくれたのだから、政治的な打算があった事に疑いの余地は無くとも感謝の念に変わりはない。
第二の故郷となった甲斐国を後にして、実家に戻った貞春を待ち受けていたのは、自らの命に代えても守り抜くと誓った朱音の死だった。小さな体を病に蝕まれた末の。
一時は自害すら考えた貞春を引き留めたのは、自らも幼い娘を抱えながら、凋落の一途を辿る今川家を必死に支えようと奔走する義姉――結の姿だった。
その姿に胸を打たれた貞春は自害を諦め…夫と娘に操を立てるために剃髪した上で、実家に尽くす道を選んだのだった。
「今にして思えば…朱音を寿桂様に会わせて差し上げる事ができたのは、不幸中の幸いだったかもしれないわね。血のつながりが無いとは言え…。」
「お気に病まれる事はございません。寿桂様は大層お喜びにございました。三回忌法要も無事に終わって…何よりにございます。」
かつて今川家の屋台骨を担い、その死が武田信玄の侵攻を決意させたとも言われる女傑、寿桂尼を二人で懐かしむ事しばし…貞春はすくっと立ち上がった。
「さあ、竜王丸殿のお守りに伺わなければ…お兄様とお義姉様が心置きなくお務めを果たせるように。」
「…お部屋まで、お供いたします。」
かつて妻であり母であった尼僧は部屋を後にする。
今川の未来を守り、育てるために。
次回、今川氏真が経験した大平城攻防戦について取り扱う予定です。