表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
49/52

#049 北条氏康の遺言(氏照編)

今回、三増合戦の経緯について参考にしたのは、西股総生(にしまたふさお)先生の『東国武将たちの戦国史』(河出書房新社)です。

三増合戦の展開に関しては、「三増峠に陣取った北条軍を武田信玄が翻弄し突破した」という解釈もありますが、拙作では上記参考文献をもとに逆の解釈を述べています。

 氏政に続いて北条氏康の病床を訪れたのは、氏康の三男にして北条家中で屈指の有力者である源三(げんぞう)氏照(うじてる)だった。


「ズッ…父上…ズッ…父上におかれましては…ぐ、ふううう…。」

「…っだあああ!うるせえ!泣くなら泣け!こらえるならこらえろ!…あー、でけえ声出したら気怠(けだる)くなってきやがった…。」

「そ、それは一大事!すぐに薬師を…!」

「よせ。見舞いに手前で水差してどうすんだ…気が済むまで泣け。そんくらい待っててやらあ。」

「か、かたじけない…うう、うおおおおおおお…。」


 氏照がひとしきり泣きわめき、喉をしゃくり上げながら鼻をかむ様子を見た氏康はおもむろに口を開いた。


「時が経つのは早えなあ…赤子の頃は姫っつってもおかしくねえ、つるっつるで丸々とした有様だったってのによ。」

「お、お戯れを…今やそれがしは御一家衆筆頭。数多の国衆を従えて御屋形様(氏政)をお助けする立場にございます。いつまでも父上のご厚情に甘えている訳には参りませぬ。」


 豊かに生え揃った口ひげを誇るように氏照が胸を張ると、氏康は愉快そうに笑った。


「つくづく大きくなったなあ、源三…体だけじゃねえ、心もだ。若武者の頃はちっと先行きの怪しい所があったが…この分なら、俺がどうこう言わずとも良さそうだ。」


 父親に褒められた氏照はしかし、徐々に顔を曇らせていく。


「…実は、本日お伺いしましたは…それがしの不手際をお許しいただきたく思うたためにございます。」

「不手際ぁ?…俺への見舞いの品を横領でもしたってか?」

「め、滅相も無い!…三増(みませ)の一戦にて、甲州勢を取り逃がした事にございます。」


 三増(峠)合戦は永禄十二年(西暦1569年)十月六日、北相模(神奈川県北部)の三増峠近辺で発生した、北条と甲斐武田の大規模な軍事衝突である。

 当時北条と交戦状態にあった武田信玄は、北条の戦力を駿河(静岡県中部)から本国へと後退させるべく上野(群馬県)方面から進攻。武蔵(埼玉県および東京都)から相模小田原までを放火と略奪で荒らし回った挙句、反攻のため各地から出撃した北条の諸隊を迎え撃つべく三増に陣を構えた。

 三増を前に合流し、二万に迫る大軍となった北条軍は、武田軍との間合いを慎重に測りながら氏政率いる本隊の到着を待つ…が、事態はここで大きく動く。

 武田軍の一部が峠を越え、甲斐(山梨県)へと撤退する動きを見せた事から、功を焦った一部北条兵が突出し、武田軍と接触。なし崩しに戦端が開かれてしまったのだ。

 兵力的には互角でも、総指揮官を欠いた上に高所に陣取る敵と真っ向から組み合った北条軍は徐々に劣勢へと追い込まれて行き…山県(やまがた)昌景(まさかげ)率いる武田の赤備(あかぞなえ)に側面を突かれたのが決定打(とどめ)となって、壊走に至った。

 氏政の到着を恐れた信玄が追撃を早々に切り上げて撤収したため、北条軍が大損害を被る事態は免れた、が…神出鬼没の武田軍に痛撃を与えるどころか、同等の兵力で挑んだにもかかわらず翻弄されたという事実は、北条の家中に深い屈辱を刻み付けた。


「あの時、突出したのはそれがしの手勢…それがしがもっとしっかりと手下(てか)を掌握していれば、今日(こんにち)の苦境もなかったのでは、と…。」


 逞しい顔にありありと後悔を浮かべながら、言葉を絞り出していた氏照は、正面から放たれる殺気に気付き、視線を跳ね上げた。


「…図に乗ってんじゃねェぞ髭達磨(ひげだるま)。北条の総大将にでもなった積もりか?」


 氏照は目の前に横たわる老父から目が離せなかった。

 老いと病魔に全身を蝕まれ、太刀を振るうどころか歩く事さえ覚束ない…それが今の氏康だ。だが、その身から放たれる存在感は、かつて最前線で采配を振るった頃からいささかも衰えていないように見えた。


「…はァ。敗戦(まけいくさ)に負い目を感じるのは一向に構わねえ。だが、悔いるばかりで何の(かて)も得られねえようじゃ…それこそ一手の大将として落第じゃねえのか?」

「…返す言葉も、ございません…。」


 威圧から解き放たれた氏照は、密かに深呼吸を繰り返しながら肯定の意を示した。


「千の兵を得るは(やす)く、一将は求め(がた)し…兵を(いた)わるのも将の務めだがな、将の死はより多くの兵や民を危険に晒す事にもなりかねねえんだ…命の使い所を見誤るんじゃねえぞ。」

「…グス…父上のお言葉、胸に刻みまする…。」

「もう泣くな。第一…あの時信玄が小田原を攻めあぐねて引き上げる道を()ったのにゃ、手前が滝山城の守りを固めて、甲州勢相手に渡り合ったってのもあるだろう。…手前は(まつりごと)の才覚で新九郎に劣るかも知れねえ、が…将としては立派なモンだ。自信を持ちやがれ。」


 再びの褒め言葉に、氏照は息を吞み、目を潤ませた。


「!…は…ははぁっ…父上、それがしはきっと…。」

「そこまでだ、源三…くたばりかけの爺に何を誓っても無益…どうしてもってんなら新九郎に、だ。」


 言葉面は厳しく、しかし声色は優しい父の言葉に、氏照は万感の想いを込めて一礼し、迷いを振り払うように勢い良く立ち上がって部屋を出て行く。


「あの気性は誰に似たんだか…あの世で会ったら、親父殿に聞いてみるか。」


 愉快そうに呟くと、氏康は布団を被り直したのだった。


戦国時代の合戦の前提として、いずれの大名も損耗を避ける傾向があったと言って差し支えないと思います。

これは、軍役で動員した雑兵でも、銭で雇った足軽でも、損耗が各将の「損失」になるからです。

そのため、史料では「いつ頃どこで合戦があった」と記載があっても、桶狭間や長篠のように大規模な戦闘になり、上級武士が討死する事態はそうそう起こらなかったようです。

逆に、双方が交戦を避けた積もりで偶発的に衝突したり、一方の計算ミスで圧倒的不利な状況でも戦わざるを得なくなったり、といった理由で激戦に発展するケースもしばしば見られます。

こうした時に重宝されるのは諸葛孔明のような『軍師』ではなく、決断力に富み臨機応変に立ち回れる人材だったのでしょう。

その分、大軍を分割して広範囲で長期間運用する『戦略』という概念が育ちにくかったのかも知れません。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ