#046 父と娘、今生の別れ(前)
近年の研究で、武士の切腹や自刃に関する意味や頻度は、戦国時代までと江戸時代以降でかなり異なる事が分かって来ました。
戦国時代、名誉や忠誠を示すために自刃する事例は意外に少なく、大名クラスになると一度や二度の敗戦や落城で自害するのはレアケースだったようです。
戦争が無い平和な時代でこそ、忠誠を目に見える形で表現しようと、江戸時代の侍達は進んで腹を切ったのかも知れません。
病床の父上との面会の約束を取り付けてから数日後、私は小田原城へと登城し、父上の屋敷を訪問していた。母上と短い会話を交わした後、父上の部屋に向かう。
目的地へと近付くにつれて強くなる匂いに、私は顔をしかめた。お香の匂いだ。病人特有の臭い、死の気配を誤魔化すための…。
それが前世の、最後の記憶にこびりついた…消毒液や湿ったシーツといった病室の思い出をフラッシュバックさせて、私は一瞬立ちすくんだ。
「…違う。病人は私じゃ、ない。」
自分に言い聞かせて、足元を確かめるように廊下を踏みしめる。
やがてお香の発生源である部屋の前で膝を突き、閉ざされた障子に向かって頭を垂れる。
「結にございます。」
「…入れ。」
記憶の中の声よりも、ずっと弱々しく聞こえる父上の返事に一瞬たじろぎつつ、静かに開かれた障子の間を通って入室する。
当然、と言うべきか…昼でも薄暗い部屋の中心には、布団に横たわる父上。室内には他に若武者と女中が一人ずつ、父上を見守るように座って待機していた。
「俺の首をタテに振らせるたあ、知恵を付けたじゃねえか、ええ?」
寝込む前と遜色無い眼光が、床の上から私に突き刺さる。だが、今の私はそれを恐ろしいとは思わなかった。
「相模守殿の娘にございますれば。」
「へっ、言うようになったじゃねえか。…お前ら、少し座を外せ。」
父上の指示に一瞬迷う仕草を見せてから、二人は部屋を退出していった。
「で…東条源九郎がどうしたって?」
「お梅から聞きました。かつて父上が用いた、世を忍ぶ仮の姿であられた、と…。」
父上はやれやれと言わんばかりにため息をついた。
「お梅が口を割ったんなら、隠し通せる道理も無えな…。で?それを知って何をしようってんだ。」
「父上の存念を伺いに参りました。なにゆえ素性を伏せて警固の列に加わり、賊と斬り結ぶに至ったのかを…。」
「そりゃあお前、今川との婚姻を控えた大事な時期に、だ。『お宝』をキズモノにされちゃたまったもんじゃねえからな。」
ダウト。
「私がお伺いしているのは、父上が直に警固に加わった理由にございます。警固の人数を増やすなり、他にも手立てがあった筈…。」
「…チッ、ばれたか。しばらく直に太刀を交えてなかったもんで、腕が鈍ったんじゃねえかと心配でな。手前の警固にかこつけて暴れてやろうと目論んだのよ。」
噓だ。
「先ほど母上にお伺いしました。父上は日頃から剣術の稽古に余念が無かった、と…賊が私の間近に迫ったと知って、ひと月ほど上の空である事が多かった、と…。」
「…何が言いてえ。」
私は深呼吸を一つした。
自意識過剰じゃないかという疑念が半分、真実を前に逃げ出したい気持ちが半分…だが、もう前に進むしかない。
「父上は、私を守るために…あえて素性を偽って警固に加わったのではありませんか?供も付けず、己の技量のみを頼りとして…ただ私を守りたい一心で…。」
「…だったらどうだってんだ。」
私の推測を事実上裏付ける返答に、頭をこすりつけるようにして平伏する。
感謝と、謝罪の念を伝えるために。
「心よりお礼申し上げます。数か国の主が、娘に迫り来る危機を掃わんが為に身命を擲ち…あまつさえ、その功を伏せて参られた。そのような振る舞いが出来る武士が、当世幾人いらっしゃる事か…。」
「…へっ。母ちゃんには手前をエサに釣りをした浅慮を、新九郎(氏政)には当主自ら出張った軽挙を咎められたが、な。」
「されど、いえ、それゆえに…お詫びしなければならない事がございます。」
私は顔を上げて、死刑判決を受けたような気持ちになりながら、続きを口にした。
「私は…父上と母上の子ではありません。」
【速報】転生者がカミングアウト【マジで?】




