#045 別れの時は近づいて(後)
前作をご覧いただいた読者の皆様には今更ですが、東条源九郎の正体がついに明かされます。
「東条源九郎殿を覚えているか…ですって?」
私は困惑混じりに聞き返した。
東条源九郎、忘れる筈もない。
私の命の恩人でもあり…お守り同然に愛用している短刀の名前でもある。
もう二十年近く前になる。
今川家への輿入れを前に、天用院殿――氏親兄さんの三回忌法要へと列席するため、私は北条家ゆかりの寺院である早雲寺を訪れていた。そこで『渇魂党』なる犯罪集団に命を狙われたのだ。
幸い、企みを事前に察知していた父上の手配によって、腕利きの侍三名と薙刀で武装した侍女達が身辺警護に当たってくれた結果、私は無傷で法要に列席する事が出来た。
事件自体は酒に酔った足軽が突発的に引き起こしたものとして処理され、『渇魂党』は全員斬首刑。背後関係とかが明らかになるには至らなかったため、それ以来特に気にかけた事も無かったが…印象に残った事と言えば、やはり源九郎殿だ。
直接護衛してくれた侍三名の内、二名は以前から顔馴染みになっていた馬蔵さんと牛吉さんで、現在は我が家の正門警備に当たってくれている。
残る一人が二人の同僚、東条源九郎殿だったのだが…彼は中々に謎の多い人物でもあった。何せ私は彼の素顔を見ていないし、声を聞いた覚えも無い。
直前にケガをしたとかで顔は包帯ぐるぐる巻きだったし、女性みたいな声を気にしているとかで終始無言だった。事件の後でお礼を言おうと思ったら、声を矯正するために越中(富山県)の医者にかかりに行ったとかで、それ以来会った事も無かった。
だが、私は天用院殿の三回忌法要直前に父上からもらった短刀に彼の名前を刻んでもらった。源九郎殿は、警護を突破して肉薄した賊を倒し、私の命を救ってくれた、正真正銘命の恩人だったからだ。
腹を蹴られて意識が朦朧としていたが、そこまでは覚えている。月明かりを背に、賊と対峙する源九郎殿が――とてもかっこよかった事も。
ま、まあ五郎殿には一歩及ばず、といった所ではあるが。
「その…東条源九郎殿に何かあったの?」
恐る恐る問い返すと、心なしかお梅の眼光が一層鋭くなった。
「源九郎殿は、今…死の淵に立っておられます。恐れながら御前様には…彼のお方を見舞って差し上げていただきたく。」
「え…ち、ちょっと待って。見舞うと言っても…何処にいらっしゃるというの?それに…源九郎殿の容態を、どうして貴女が知っているの?」
困惑する私に、お梅は険しい顔付きで畳み掛ける。
「源九郎殿は小田原城本丸にて…総身に病を患い、床に老体を横たえておられます。今はただ、黄泉路への旅立ちを待つのみ――」
「ま、待って!…待って頂戴、それではまるで、まるで…。」
北条氏康が、東条源九郎の正体…みたいじゃないか。
言葉にならない私の声に、お梅はその通り、と言わんばかりに頷いた。
「御前様、今一度…登城の申し入れをなさいませ。その折に『東条源九郎の件で話がある』と言い添えれば…此度はきっと、御本城様へのお目通りが叶いましょう。」
お梅の進言の正しさが証明されたのは、翌日…父上との面会の許可が下りた時の事だった。
北条氏康の若い頃の仮名は「新九郎」、かの有名な「北条新九郎」の名を継いでいました。
そこで、「ほうじょうしんくろう」→「とうじょうげんくろう」→「東条源九郎」というシャレで決めた次第です。