#044 別れの時は近づいて(中)
ちょっと前に名前だけ出ていた、侍女頭(メイド長的存在)のお梅が登場します。
侍女頭の個室に入ると、一人の老婆が、敷布団の上で背筋を伸ばし、正座していた。
「ご足労いただき、かたじけのう存じます。このような有様で、誠にお恥ずかしく…。」
「もう、何を言っているの…今の貴女の奉公は体を休める事だと言いつけたでしょう。ほら早く、務めを果たしなさい。」
少しおどけて言うと、老婆――私の側付き侍女筆頭で最古参のお梅は、苦笑して足を崩した。
「申し訳ございません。御前様にこうしてお目通りが叶うのも、もうしばらくの事と思うと…一日とて惜しく思われまして。」
お梅は私が幼少期から傍にいてくれた、もう一人の母と言っても過言ではない存在である。副頭のお銀共々私の身の回りの世話を焼いて来てくれたが、寄る年波には勝てず…揃って引退する事になった。
侍女頭の後任はもう一人の副頭で、私が今川家に輿入れした際に追加派遣された雛菊。
副頭の後任には輿入れ前から現場のまとめ役的ポジションに収まっていた小春と、雛菊の妹分である青桐が就任する。
一応トップ層が若返りを果たした訳だ。…全員私より年上だけど。
まあ、そんな事は大した問題じゃあない。
「重ねてのご厚恩、何とお礼を申し上げればよいか…これ程の宝物や金子を頂戴出来るとは思いもしませなんだ。」
そう言ってお梅が目をやったのは、部屋の一方に置かれた、様々な大きさの木箱の山だった。中には私がプレゼントした、服飾品や小切手が入っている。
「こうでもしなければ、今日までの貴女の働きに報いる事は出来ないもの。」
それは私のまごう事無き本音だった。北条の娘、今川の妻と威張った所で、侍女のみんながいなければ、着替えから寝床の準備から、日常生活を送る事さえ難しいのだ。ある意味前世より生活力が無い。
そんな生活力マイナスお嬢様を赤ちゃんの頃からグチ一つこぼさずに育ててくれたお梅は、凄くて立派なおかあさ…侍女頭なのだ。
駿府に住んでいた頃に溜め込んでいた財産のほとんどは、掛川城へ逃げ込んだ際に置いて来てしまったが、早川郷に移住して一年半、資産運用に励んだかいもあって、お梅とお銀に特別退職手当を用意する事が出来た。
お梅は退職後、親戚の家で余生を送る予定らしいが、彼女名義の財産がこれだけあれば、その親戚が余程の極悪人でない限り、喜んで老後の面倒を見てくれるだろう。多分。
…やっぱり心配になって来た。
世界的に見て治安が良い現代日本でさえ耳を疑うようなえぐい犯罪のニュースがちょくちょく飛び込んで来てたし…引退した後も、手紙のやり取りくらいは続けた方がいいのかもしれない。
「わたくしは果報者にございました。本城御前様に続いて御前様と、二代に渡って素晴らしいお方にお仕えする事が出来て…。」
しばらくの間ぐすぐすと鼻を鳴らしていたお梅をなだめて、思い出話に興じる。
父上の死が近づいているという現実から目を背けているという自覚はあったが、会話は思いの外盛り上がった。
「――そのような事もございましたね。今思えば何ともお恥ずかしい――」
「――の時のお梅の振る舞いと来たら。侍女全員の手本と言っていいほどの――」
異変は、話題が私の輿入れ直前に移った時に起こった。
「早雲寺で凶賊に襲われた事もあったわね…不寝番の三人と、薙刀を携えた貴女達がいなければどうなっていた事か…。」
私にとっては、それなりに命の危機を感じた幼少期の一ページ。
だが、お梅はみるみるうちに顔をこわばらせた。
「どうしたの?梅…。」
「…ずっと、思い悩んでおりました。申し上げるべきか、否か、と。されど…御本城様(北条氏康)の天命が今まさに尽きんとするこの時に黙して語らざるは…却って不義に当たりましょう。」
誰かに言い訳するかのように、或いは自分に言い聞かせるように呟くと、お梅は崩していた両足を正座に戻し、私の目を正面から見つめた。
「御前様…東条源九郎殿を覚えておいでにございましょうや?」
源九郎=源九郎判官義経、とかではないです。
適当に考えた結果、後で「やっべ、義経とかぶってるじゃん」と焦ったのはここだけの秘密…。