#004 年上義妹、母性マシマシ(中)
母性爆発。
私の息子に名付けられた『竜王丸』は今川家の嫡男が代々名乗って来た幼名であり、実父たる五郎氏真殿から受け継がれた由緒正しいものである。
にもかかわらず、竜王丸は今川家の嫡男ではない。
そこには、当人のあずかり知らぬ所で決められた、この上なく政治的な事情が関係していた。
一年前、私は五郎殿が率いる今川家の残存戦力と共に、遠江国(静岡県西部)の掛川城に籠城していた。
徳川勢に完全包囲され、満足な援軍も望めない絶望的な状況下にあって、五郎殿は獅子奮迅の活躍を見せ、互角以上の防衛戦を展開したものの、日を追うごとに巻き返しは難しくなっていった。
そこで、私達は北条の仲介で掛川城を徳川勢に明け渡し、北条の勢力圏に退避する事ができたのだが、そこで氏政兄さん――北条家の現当主――と五郎殿が内々で進めていた縁談が正式に通告された。
それが氏政兄さんの長男である国王丸殿と、私の娘である紬の養子縁組である。国王丸殿は数え八歳、紬は四歳だから、ゴリゴリの政略結婚だ。
結論から言えば、これは今川家の体面を尊重しつつ、北条が駿河での軍事行動を円滑化するための手続きの一環だった。
当時、同盟を破棄して駿河全域を制圧しつつあった武田に対して、氏政兄さん率いる北条軍は東から『進駐』してその動きを妨害していた。
当然、氏政兄さんの指揮下には武田に味方しなかった今川の武将達がいたのだが、正式に主従関係を結んだ間柄でない事から、軍事行動に様々な支障が発生。これを解消するために養子縁組の措置が取られた。
国王丸殿は五郎殿の婿養子となると同時に今川家の家督を継承し、名目上の当主となる。しかし幼少につき、実の父である氏政兄さんが『後見人』として今川家臣を指揮する――という理屈だ。
…正直、今川が北条に乗っ取られるのではないかという心配はあったが、五郎殿はそれを苦笑交じりに否定した。
「北条の大義名分は今川の窮地を救う事…にもかかわらず今川を乗っ取っては、北条も武田と同じ盗人の汚名を着る事となろう。五年、十年先は分からぬが…当座の苦境を乗り切るにはやむを得ぬ仕儀じゃ。」
その見立て通り、今川の家督を国王丸殿に譲ったからといって、即座に五郎殿が幽閉されるとか、下級家臣みたいな雑な扱いにランクダウンするとかいう事は無かった。
それはそれでいいのだが、問題は翌年――つまり今年の2月に早川郷で私が出産した竜王丸の立場だ。
今川の没落さえなかったら、順当に後継者のイスに座っていた筈の長男が、いずれ自分の立ち位置を理解した時、どんな気持ちになるのか…。
「奥様…ご心配には及びません。」
思考の海に沈んでいた私の意識を引き揚げたのは、貞春様の穏やかな声だった。
「紬姫様も、竜王丸殿も、お兄様とお義姉様の大切なお子…この貞春が、全身全霊を賭して立派な女性、殿方にお育て申し上げます。」
「貞春様…。」
…貞春様は、今川に里帰りして間もなく、武田義信殿との間に産んだ一人娘を亡くしている。剃髪、出家したのはその直後。しかし俗世との関係を断つ事なく、五郎殿と私をサポートしてくれている。
中でも助かっているのが、紬と竜王丸の育児だ。紬は国王丸殿との養子縁組が成立するまで、竜王丸は産まれてからずっと、貞春様が中心となって面倒をみてくれている。
北条の一武将として前線にいる五郎殿に代わり、屋敷や所領を管理しなければならない私にとっては有難い存在だ。
別に、お腹を痛めて産んだ我が子が可愛くないとかそういう訳でもないが、公的な育児支援もスマホアプリも存在しない戦国時代にあって、公務と子育てを両立させるのはメチャクチャ大変なのだ。
その点、貞春様は育児経験があって、面倒見が良くて、子供たちを安心して預けられる。
「そう、もっと…もっともっともっと…。」
「…貞春様?」
俯いて自分の肩を抱き、ぼそぼそと呟く貞春様に嫌な予感がして呼びかけると――
「…んもぉぉぉっと!お世話して差し上げたい!起床から就寝まで!お食事、お着替え、湯浴みさえも!さあ、お義姉様どうぞこちらへ。頑張り屋の良い子は誰であれわたくしの膝枕で――」
「御免。」
「むぐっ。」
突如として身をくねらせながら怪しい眼光を放ち出した貞春様に対して、私が『またか…』みたいな微妙な表情を浮かべていると、音もなく彼女の背後に回った百ちゃんが、白い布で貞春様の口を塞いでいた。
「ん、ん…すう。」
一瞬で寝落ちした貞春様を、百ちゃんは軽々と抱え上げる。
「お部屋にお送りして参ります。」
「お願い。」
すっかりおなじみとなったやり取りを交わして、部屋を出ていく百ちゃんを見送る。
「安心して預けられる…かしら?」
だんだん自信がなくなってきた。
貞春様は母性が有り余っているというか…時々暴走して、老若男女構わず甘やかそうとする。実際に幼児退行して廃人になりかけた被害者もいるくらいだ、任せっぱなしには出来ない。
「でも、きっと…これでいいのよね。朱音には寂しい思いをさせてしまうけれど…貞春様は五郎殿にとって、大切な肉親の一人でもあるのだから…。」
私は自分自身に言い聞かせるように、そう呟いたのだった。
朱音って誰?という疑問には次回でお答えします。