#038 いざ、鎌倉旅行(前)
家族旅行編、開幕。
元亀二年(西暦1571年)四月 相模国
「鶴岡八幡宮詣でに同道…でございますか?私が?」
小田原城から帰宅した五郎殿から、難しい顔付きで明かされた内容に、私は戸惑い気味に返した。
「うむ、本日相模守(北条氏康)殿に呼び出されてのう…近々本城御前様を伴って鶴岡八幡宮詣でに参られるお積もりだそうな。その行列にお主も加われ、とな…。」
加われ、と来たか。
確かに今川家の生活が成り立っているのは父上の後ろ盾による所が大きい、が…あまり一方的に指図されるのも面白くない。
「何とお答えに?」
「お主の意向を確かめてから返答したい、と申し上げたのじゃが…『早川源吾の貸しを返せ』とお主に言付けるよう仰せになられてのう。…例の件、お主の発案であったと見抜いておいでであったようじゃ。」
父上のメッセージに、私は舌打ちを懸命にこらえた。
五郎殿が『早川源吾』に化けて塚原卜伝先生の墓参りに行くには、氏政兄さんの内諾が欠かせなかった。その根回しのために父上を口説き落とした積もりだったが…父上はそれを『貸し一つ』とカウントしていたらしい。
断るという選択肢は事実上無くなったと見た方がいいだろう。
「娘の私がこう言うのも業が深うございますが…相模守殿の存念は奈辺にございましょうや?」
「む?…いや、邪な企みがあるようには見えなんだ。儂らを害そうと目論んでおいでならば、登城を申し付けるなり、兵を差し向けるなりすれば済む話…単にお主と道程を共にしたいと、そうお考えなのではないか?」
「は?…何か企みがあると、それを気に病んでおいでなのでは…?」
でないと難しい顔をしていた理由が分からない。
「いや、最短でも三日間、お主に会えぬと思うと…今から憂鬱でのう。」
こ、この人は…いくつになってもこういう事をサラッと言ってくれちゃって…。
「か、上総介様にそこまで気遣っていただき嬉しゅうございます。お陰で決心がつきました。…申し付け通り、父上と母上の道程にお付き合いして参ります。」
そう言うと、五郎殿はまだ未練がありそうな表情で頷いた。…その日の夜は、いつにも増して激しいものとなった事をここに書き添えておく。
数日後、夜明けとほぼ同時に小田原を出立した私と両親は、護衛やら侍女やら荷物持ちやらをゾロゾロと引き連れて、一路東を目指した。私と本城御前様は輿に揺られて、父上は自ら騎乗して程よい陽気の下をのんびり進む。
出発地点から目的地まで北条領内、目的も軍事行動ではなく実質旅行。そんな行程が、今この瞬間も日本のどこかで殺し合いが起こっているという現実とどうにも結びつかず、私は輿の中でしばしば落ち着かない気持ちになった。いやまあ、突然行列の左右から伏兵が湧き出して皆殺しの憂き目に遭う、みたいな展開になるのも御免だが。
初日は運良く水かさが低下していた相模川を渡って、東相模の要衝、玉縄城に入城。ここで一泊する。
「ご一同、よくぞ参られた!今宵は我が城にて存分に休まれよ!」
「相変わらずだな孫九郎、でけえ声してやがる…まあ、その方が手前らしいや。」
小田原まで届くんじゃないか、ってくらいの大声で私達を迎え、父上と気安く言葉を交わす壮年武将は北条孫九郎綱成、玉縄城の主であり、北条家の最精鋭部隊である『玉縄衆』の指揮官でもある。
それに加えて、父上の妹を妻に迎えていて、娘の一人が氏規兄さんに嫁いでいて…まあ、色々な意味で北条の重鎮と言って差し支えない。
私が見聞きする限りでは、とにかく声が大きく、悩み事とは無縁で、50歳を超えても最前線で戦うのが大好きなバリバリの体育会系だが。
「近頃は昔日のあれこれを思い返す事も増えましてな!特に感慨深いのは河越城がかつての関東管領殿に囲まれた折の…むっ、これはしたり!早川殿を伴っておいでとは…!」
「そいつはちょうどいい、今宵の夕食の席にでも聞かせてくれねえか。…結が産まれた時の話を、よ。」
え何それ、初耳。
この時期に北条氏康が鶴岡八幡宮を参詣した、という公式記録はありませんが、それ以外に何をしていたという記録も見当たらなかったので今回の話を書きました。




