#033 北条氏規の秘密と誠実(前)
前回の末尾で少し先走りましたが、時間軸を現在に戻して再開します。
「おお結。少し騒がしかったようじゃが…お多嘉殿との話は終わったか?」
意識を失ったお多嘉殿を医務室に運ぶ百ちゃんと別れ、自室から客間に向かった私は、ちょうど客間から出て来た五郎殿と出くわした。
「はい。ただ、少しお疲れだったようで…体調にもいささか気掛かりがおありとの事でしたので、越庵先生に診ていただく事になりました。」
「左様か。言われてみれば顔色が悪かったような…儂は少し用を足して参るゆえ、助五郎の相手を頼む。」
厠に向かう五郎殿を見送り、客間に入って元の席で片膝を立てると、下座に座る氏規兄さんと一対一で向かい合う。私が口を開くより早く、氏規兄さんは軽く頭を下げた。
「此度は奥が迷惑をかけた。済まぬ…。」
「その気遣いをお多嘉殿に向けてあげてください。深く思い悩んでおいででしたよ。…相変わらず『風』は肝心な所を教えてくれないのですね。」
私とお多嘉殿の間にひと悶着あった事を、どうして氏規兄さんが把握しているのか。答えは氏規兄さんが持つ特殊スキル、『潮風のお告げ』にある。
これは潮風の音が人の声に聞こえるというもので、端的に言えば未来予知だ。ただし、海から離れると聞き取りにくくなるとか、知りたい時に知りたい事を教えてもらえるとは限らないとか、具体的な部分がぼかされているとか、欠点が多い。
例えばの話、海上で数時間後の天気を予想すれば99パーセント的中するが、内陸部で一年後の政治情勢を読み取ろうとするとどうとでも解釈出来るような予知しか出来ないのだ。
それを抜きにしても氏規兄さんは優秀なのだが、動かせる戦力は北条家中でもそれ程多くない。技量で優位に立つ里見水軍に対しては、北条の国力にモノを言わせた物量と『潮風のお告げ』を活用して互角以上に立ち回れるが、百戦錬磨の武田勢と地上でやり合うとなると、際立った戦功を挙げるのは困難と言わざるを得ない。
それはさておき。
「お主に言われた通り、駿河の思い出を話す時は気を付けていたのじゃが…郷愁の念は隠し通せなかったようじゃ。矛先がお主に向かうとは思わなんだが…。」
…私と氏規兄さんは、お多嘉殿に秘密にしている事がある。氏規兄さんの、最初の正妻――関口紫吹殿の事だ。
今川義元殿が、五郎殿に疑似兄弟を用意するために関口刑部少輔家を使おうとした、と言ったが、あれはつまり政略結婚だ。関口家の長女、瀬名殿が徳川家康――当時は松平元信だった――に、次女の紫吹殿が氏規兄さんに嫁いだ。何事も無ければ、氏規兄さんは関口家の婿養子として刑部少輔の名跡を継ぎ、徳川家康の義弟、五郎殿の右腕となっていた筈だった。
義元殿の死後、氏規兄さんが北条に戻ったのは、実家からの圧力だけが理由ではない。紫吹殿が病死して、関口刑部少輔家との血縁関係が消滅したためだ。その時には既に、氏規兄さんとお多嘉殿との婚姻の準備が進行していた。
…紫吹殿が早逝した直後、私は氏規兄さんに忠告した。紫吹殿に関する物品や思い出を小田原に持ち帰らず、帰国後は駿河での生活を懐かしむような言動をしないように、と。
新しい結婚相手や新しい任務と、帰国次第向き合っていかねばならない氏規兄さんが、駿河での結婚生活を大っぴらに懐かしんでいては各方面に支障をきたすだろうと踏んだのだ。
家臣や同僚相手にはそれで通用しているようだが、お多嘉殿の勘は誤魔化せなかった、という事か。
「奥が今日この時を好機に凶行に及ぶであろうと見当は付いていた…それが却って最良の結果をもたらすであろう、ともな。されど、お主に迷惑をかけ、手間をかけさせたのも事実…そこで、詫びの証を持って参った。」
そう言うと、氏規兄さんは懐から印籠を取り出し、中から折り畳まれた紙を引き出して床の上に広げた。
「これは…?」
パッと見、船の設計図のように見えるが…待てよ、この形は…。
「この事を知っておるのはわしの直臣と御屋形様のみゆえ、他言無用で頼む…仮の名を『大和黒船』。伊豆の南端、下田で内密に造らせておる…南蛮船を模した軍船じゃ。」
今の所信用できる史料で確認された『日本人が造った南蛮船』は、徳川家康と伊達政宗が造らせたもののみです。
『大和黒船』は今後の展開に欠かせないキーアイテムになっていく予定です。




