#026 老兵、未だ去らず(前)
復ッ活ッ
北条氏康、復活ッッ
北条氏康、復活ッッ
北条氏康、復活ッッ
元亀元年(西暦1570年)九月 相模国 小田原城
北条氏康が中風で倒れてから一か月余りが経過したある日の昼、私と五郎殿は小田原城内の、父上の屋敷を訪れていた。
緊張で何度もカラ唾を飲み下しながら廊下を通り抜け、客間に入ると、既に上座に父上と本城御前様が並んで座っていた。
「今川上総介、参上仕りましてございます。」
「結、同じく…ご両人におかれましては、ご機嫌麗しく…。」
五郎殿は下座の中央に、私はその斜め後ろに腰を下ろして平伏する。
「おう、頭上げな。二人共よく来てくれた。わざわざ早川郷から呼び立ててすまねえが、直に話しておきてえ事もあったんでな…。」
心なしか以前より覇気を欠いてはいるものの、滑らかに話し始めた父上の声に、私は密かに安堵のため息をついた。
脳内出血の後遺症について、前世である程度見聞きしていた身としては、かつての快活な口調ではなく、何を言っているのか分かりづらい言葉が父上の口から出て来るのではないか、という不安を抱えていたからだ。
「中風に罹りながら斯様にまで回復なされるとは…相模守殿の壮健ぶり、恐れ入りましてございます。」
私の内心を読み取ったかのように五郎殿が言うと、父上は片頬を歪めて肩を揺らした。
「自力じゃねえ、越庵先生の看病の賜物よ…今日呼んだのは『それ』についても、だ。結、俺の治療に関する銭はお前が払ったって事で間違いねえな?」
「?は、はい、仰せの通りにございます。」
「後で明細を寄越せ。耳を揃えて返す。」
「そっ…そのようなお気遣いは…。」
ビックリして大声を上げそうになった所を何とかこらえながら、父上の申し出をやんわりと断ろうとする。
先日五郎殿に指摘されて、自分が考えていたよりはるかに父上を大切に思っていた事実に気付いた以上、何らかの形で親孝行をして育ててもらった恩を返して行きたかった。
「それじゃあ筋が通らねえだろうが。越庵先生は百姓農民からは銭を取らねえ代わりに、人を使う側…商人や公家、侍から身代(しんだい=財産)に応じて銭を取ってる。にもかかわらずお前、北条の先代当主である相模守がだ。手前の不注意の後始末を娘に押し付けたなんて風聞が出回ったら、北条の名にキズが――」
「要するに。慣れない暮らしで気苦労が絶えないであろう娘を、どうにか手助けして差し上げたい、と…相模守殿はそう考えていらっしゃるのよ。」
「おい母ちゃん…!」
心底嬉しそうに口を挟んだ母上に、父上が困ったような声を掛ける。
そんなやり取りを呆然と眺めながら、私は父上の口癖が『筋を通す』『筋が通らない』である事にようやく気付いた。
「ははは…お二人共、仲睦まじゅうございますな。拙者達もかくありたいと思うておりまする。」
五郎殿がお世辞――いや、あの声色からすると多分本心だろう――を言うと、二人は一転して困ったような表情を浮かべた。
「情けねえ話だが、母ちゃんに同席してもらったのは夫婦の手本を見せようって魂胆じゃねえ。俺の身の回りの世話を焼いてもらうためだ。」
「…まだ、十二分に回復しておられない、と?」
少し硬くなった声色で五郎殿が問い掛けると、父上は浅く頷いた。
「目を覚ました直後は酷いモンだったぜ。頭がまともに回らねえ、舌が回らねえ、手足が言う事を聞きやしねえ…越庵先生が荒療治を施してくれなかったら、未だに床の中で小便漏らしてたかも知れねえ。」
「それ程までとは…。」
「もう普段の生活に支障は無え。一人で文も書けるし、用も足せらぁ。」
だが、と一息ついて、父上は続けた。
「手足の指先に残った痺れはどうにもならねえ…俺ももう五十六だ、あちこちガタは来てたが…もう戦場に立つのは無理だな。」
「そんな…。」
父上は私が幼い頃と何ら変わらず、いつまでも強大な存在であり続けるものだと、何の根拠も無く思い込んでいた。だがそれは余りにも考えが甘かった。
栄養失調、疫病、飢餓、災害、戦乱…現代日本とは比べ物にならないレベルで死因がゴロゴロしている戦国時代において、数え五十六まで健康体で生きてきた事自体、相当な幸運だったのだ。
「まあ、繰り言を宣っても詮無いこった。今日は上総介殿に頼みがあってな…。」
五郎殿に頼み?
何だろう。
「一丁、俺と手合わせしちゃあくれねえか。」
北条氏康が倒れた原因が脳内出血だった場合、現代基準から見ても復調が非常に早いのですが、遅くとも発病から20日後には公務を再開していたのは確かなようです。