#025 北条氏康、倒れる(後)
北条家が外交方針を転換するのではないか、という観測が飛び交ったのは、実際には元亀二年(西暦1571年)になってからのようですが、当時は世代交代(拙作でたびたび触れて来た通り、既に氏政が実権を掌握していますが)に合わせて大名家の外交方針が転換する事が多かったので、(自称)事情通の間で様々な噂話が飛び交う事もあったのではないかと思います。
「結。大事無いか。」
赤羽陽斎殿が退出してからややあって、五郎殿が私に訊いた。
「大事も大事、一大事にございます。何としても、北条氏康には一刻も早くお目覚めいただかねば…。」
袖の中で手を握ったり開いたりして、やり場のない焦燥をどうにか誤魔化そうとする。
父上は小田原城内の自宅で療養中、氏政兄さんは動揺する家臣団を叱咤激励してまとめ上げ、伊豆国に侵入した武田勢の迎撃に向かっている。どうして五郎殿は早川郷に残っているのかと言えば、当人いわく、『今川勢』の大将として戦闘に参加するには、戦力が整っていないと判断されたためだ。
大平城から後退してまだ一か月、昨年の焼き討ちで荒廃した早川郷は復旧の真っ最中で、男手はそちらに取られている。軍役を名目に徴兵するのはムリがあるし、北条家全体で兵を集めている現状、どんなに大金を積んでも足軽だけで軍勢を編成するのはまず不可能だ。
地元の有力者との関係を構築するにも時間がかかるし、五郎殿が戦列に復帰出来るのは数か月先と見た方がいいだろう。
「武田信玄は強い。それは先刻承知…なれば、駿河を巡って利の無い戦を続けるよりも、武田と和睦して坂東の小大名を経略した方が得策…氏政がそう考えたとしても不思議はございません。元来冷静沈着にして智謀に秀でたお方にございますれば…。」
戦国武将は面子を重んじてすぐ頭に血が上るが、しばらく時間が経って冷静になると、冷徹な損得勘定で行動する習性がある。武田が駿河に攻め入った直後は父上に同調していた北条の重臣達も、戦争が長期化して負担ばかりがかさんでいく現実を前に、現在の外交方針に不満を持っても不自然ではない。
だが…。
「…兄に手紙を送りましょう。小田原を発ったのは昨日、まだ武田勢と接触してはいない筈…盟約を違えた武田と和睦する不義と、上杉と断交して争いを招く無益を説き、思い留まっていただかねば。さもなければ、五郎殿が駿府に戻る道が――」
「儂が案じておるのは左様な事ではない。」
思いがけない言葉に隣を見ると、五郎殿が全てを見通すような眼差しで私を見据えていた。
「儂には分かる。お主、相当気を張っておろう。」
「それは、勿論…万が一父がこのまま世を去る事になれば、兄が武田との和睦に踏み切り、上総介殿が駿河に戻る道が断たれて――」
「では、儂が左京大夫殿を問い質し、相模守殿が身罷られたとしても武田との和睦には臨まぬという起請文を持ち帰れば、お主は安心出来るのか。」
五郎殿の言葉に、私はとっさに反応出来なかった。
父上が死んで北条の外交方針が変わるのは困る。私が言ってきたのはつまりそういう事だ。
裏を返せば、父上が死んでも北条の外交方針が変わらないのであれば…何も、問題は、無い――本当に?
「実の父母が病に倒れたと聞いて、動じぬ者がどこにある。…お主は聡く、強かな女子じゃ。北条政子殿の生まれ変わりかと思う事もある。されど…政子殿とて人の子。大義のため、父や子に無理を強いた折に、心が微塵も動かなかったとは到底思えぬ。」
五郎殿は穏やかな声色でそう言うと、私の手を優しく取った。
「思えば輿入れ以来、いやそれ以前から…お主が常に今川や北条の行く末を案じ、心を砕き、身を削って来た事、かたじけなく思うておる。されど今はただ相模守殿の回復を念じよ。それが孝行となろう…左京大夫殿の意向については、儂が探りを入れておく。」
五郎殿の声と、指先から伝わる温もりに、私は返事をする事すら出来ず、泣き続けるばかりだった。
二週間後、二つの知らせが早川郷に届けられた。
一つは氏政兄さんからで、北条軍の接近を知った武田信玄が、伊豆侵攻を切り上げて撤退したため、こちらも引き返すというもの。
もう一つは小田原城に入っていた臼川越庵先生からで――父上が意識を取り戻した、というものだった。
本編で当時の早川郷の状況について触れたのは、この時の北条の軍事行動に氏真が参加した形跡が見られないためです。
武田と戦う大義名分を考えれば氏真がいないのは不自然なので、作中ではこのようになりました。