#024 北条氏康、倒れる(中)
今回も、前作に引き続いて架空の人物が登場します。
モデルは戦闘機シミュレーションゲーム「エースコンバットゼロ」の「ラリー=フォルク」です。
越庵先生と入れ替わるように入室したのは、白い直垂の左腕部分を紅に染め、どこかワイルドな雰囲気を身にまとった、筋肉質な体付きの中年男性だった。
「赤羽陽斎、参上仕りましてございます。」
赤羽陽斎、本名不詳。
肩書きは五郎殿直属の足軽大将。出身は北陸地方の下級武士…らしい。
ある時は下っ端戦闘員、またある時は足軽部隊の指揮官として、各地の戦場を転々とした挙句に駿府に漂着。たまたま足軽大将の募集をかけていた五郎殿のお眼鏡にかなって採用された、言うなれば傭兵隊長だ。他の家臣とは雇用形態が異なっており、毎年多額の固定給と折々の臨時報酬をもらっている。
お金はかかるが、その実力は折り紙つきで、縁も所縁も無い土地で臨時に集めた足軽を短時間に掌握、統制の取れた戦闘集団に仕立て上げる有能な人材だ。
そんな彼を呼び出したのは、彼がキャッチした情報について話を聞くためだ。
「では陽斎、聞かせてもらおうか。お主が耳にした雑説について…。」
人払いをしてから五郎殿が言うと、陽斎殿は下座で胡坐をかいたまま、どこか挑むような目付きでこちらを見据えた。
「ははっ、では…それがしが小田原城下にて耳にした雑説について、言上申し上げまする。」
陽斎殿のような「フリーランスの傭兵隊長」にとって、周囲の状況は文字通り生死に関わる。自分が所属する勢力は次の戦に勝てるのか、いずれの勢力についた方が名を売れるのか…そう言った情勢を的確に見極めなければ、良くて失職、最悪野垂れ死にである。
そういう訳で、陽斎殿は常日頃から周囲にアンテナを張っており、今回も私達が興味を示すようなネタを拾ってきたと売り込んで来たのだ。
「城内の『やんごとなき方々』が、相模守殿(北条氏康)のご不幸を契機に怪しい動きを見せているとの事…狙いは武田との和睦、上杉との絶縁、と。」
陽斎殿のタレコミに、私は自分の喉がひゅっと鳴る音を聞いた。真っ白になりそうな頭を必死に回転させて、タレコミの示す所を考える。
第一に、『やんごとなき方々』とは誰か。
母上を始めとした女性陣は、除外して良いだろう。男性当主不在で誰かが代行している、という状況でもない。
松田憲秀殿を始めとした宿老達…も考えにくい。父上が武田との断交を決断して以降、一貫して支持に回っていた筈だ。
となると御一家衆…最悪の場合、現当主である氏政兄さんである可能性が高い。
第二に、北条が武田と和睦するとどうなるのか。
それは勿論、北条と武田の交戦状態が終結するという事だ。…五郎殿が、北条の力を借りて駿河を奪還する道が、閉ざされるという事だ。
和睦が具体化すれば、境界線を巡って多少の駆け引きはあるだろうが…いくら何でも駿河一国を取り戻すとなれば、北関東一帯を明け渡すくらいの譲歩をしなければムリだろう。北条がそこまでする義理は、はっきり言って無い。
「…左京大夫(氏政)殿は、どこまでご存知か。よもや半年前…三郎殿を上杉への人質に代えた時から…。」
私と同様に考え込んでいた五郎殿が、陽斎殿に、或いは自分自身に問いかけるように呟いた。
三郎とは、父上の六男坊で私から見て腹違いの弟、西堂丸殿(数え年で17歳)の事だ。当初は氏政兄さんの三男である国増丸殿が上杉との同盟の証として越後国(新潟県)に向かう筈だったのだが、氏政兄さんが年少を理由に交代を主張、西堂丸殿に変更されたという経緯がある。
その時は、右も左も分からない子供より、成人済みの親族を人質にした方が説得力がある、と説明されて納得したものだが…もしも、氏政兄さんが早い段階で上杉との断交を模索していて、『死んでも惜しくない人質』にすり替えたのだとしたら…。
「そこまでは、拙者にも分かりかねまする。左京大夫殿やその直臣が仰せになっていた訳ではございませぬゆえ。お心を惑わすようで申し訳ない…。」
「いや、大いに役立った。礼として儂から一貫文(銅銭一千枚)を授けよう。」
「私からも一貫文を。代わりに、先程のお話は他言無用で…。」
私と五郎殿が連名で「小切手」――要するに、小田原城下の金融業者に持っていけば、現金と交換出来る書状だ――を差し出すと、陽斎殿は両手でうやうやしく受け取ってからニヒルな笑みを浮かべた。
「この程度の雑説に二貫文とは、相変わらず羽振りの良い事で…今後ともご贔屓に。」
明け透けな物言いとは裏腹に、丁寧かつ深々とお辞儀をすると、陽斎殿は部屋を退出していった。
応仁の乱の頃から現地の農村に縁も所縁も無い「足軽」と、そんな戦闘員を集めて部隊に仕立て上げる「足軽大将」は多数存在していたようです。
「正規雇用」である侍が討死すると諸々の後処理が大変ですが、カネで雇われただけの足軽大将が死んでも相続手続きは発生しないので、戦国武将は大なり小なり活用していたようです。
一説には、山本勘助もそういった背景を持つ足軽大将だったとの見方もあります。