#023 北条氏康、倒れる(前)
前作をご覧いただいた方はご存知と思いますが、バリバリ架空の医者が登場します。
モデルは手塚治虫先生の「ブラック・ジャック」です。
元亀元年(西暦1570年)八月 相模国 早川郷
「臼川越庵、只今戻りましてございます。」
残暑と秋の兆しが入り混じる昼下がり、早川郷の自宅にて。
五郎殿と並んで上座に座っていた私は、目の前で白黒ツートンカラーの頭を垂れる男性に掴みかかりたい、という衝動を必死に抑え付けていた。
臼川越庵――多分偽名。肩書きは今川家の専属医師。
性別は男性、年齢不詳。出身は西日本のどこか。
ここまで聞くとただの不審者だが、類稀なる技能がある――高度な医学知識だ。体調不良を未然に防ぐための衛生管理に始まり、漢方薬の調合から鍼治療、外科手術まで、医療行為と言えるものは大体全て出来てしまう。
科学技術の制限上、輸血や臓器移植などは流石に無理だが、戦国時代の平均水準を大きく上回るその手腕には、幾度となく助けられて来た。
そして今…この世で最も助けてほしい人の所に行って来てもらったばかりだ。
「越庵先生、面を上げられよ…相模守(北条氏康)殿の容態はいかに?」
聞くべき事の優先順位を慎重に見極めながら、五郎殿が問いかける。
越庵先生は慣れた様子で顔を上げると、いつもと同じ無表情で報告を始めた。
「相模守殿は中風であらせられました。脳天の脈が切れ、総身に力が行き渡らなくなっておられます。」
やっぱりか、と私は密かに奥歯を噛み締めた。
父上が小田原城内で昏倒したのは、8月6日。武田勢が伊豆国に侵入した、という急報が小田原に届き、迎撃のために軍勢の動員と編成が始まった直後の事だった。
父上は隠居の身とはいえ先代当主、実子である私にさえ詳細な病状は伝えられなかったが、断片的な情報から脳卒中か脳溢血の類だろう、という見当はついた。
だが、見当がついた所でどうしようもない。私には医学の知識がまるで無いし、いくら越庵先生が時代を先取りした名医でも脳の血管をどうこうする手術は不可能だ。
…だが、手立てがまるで無い訳ではない。
戦国時代とはいえ、「中風」という病気がある事実は世間一般に広く知れ渡っている。当然越庵先生も、中風患者の処置は何度も経験して来た。
つまり、私に出来た事は…越庵先生に追加報酬を支払い、父上の治療をお願いする事だった。
「とにかく寝床にて絶対安静、お体の汚れを拭う際には激しく動かす事の無いように、と…その他、重湯を召し上がる際の注意点などを指南した上で、道具や薬を取りに戻って来た次第にございます。」
「今後の見通しは、いかに?」
五郎殿が険しい表情で聞くと、越庵先生は引き続き淡々と返答する。
「重湯や白湯の飲み食いに支障が無ければ、遠からず気力を取り戻すかと。ただ、中風から目を覚ました患者は総じて呂律が回らなくなったり、手足が思い通りに動かせなくなったりするものにございます。舌や手足を動かす訓練を重ねる内に、ある程度は回復するものにございますが…。」
「ある程度…かつてのごとく、五体満足には戻れぬ。そう考えてよいのじゃな?」
「まず無理にございましょう。」
いかにもプロのお医者さんらしく、越庵先生は断言する。
…正直言って、もうちょっと楽観的な見通しを聞きたかったが、ここで気休めを聞いても仕方ない。令和の日本でさえ、脳内出血の後にはリハビリが付き物と相場が決まっている。越庵先生の見立てがその水準に近い事を、むしろ喜ぶべきだろう。
「…相分かった。当面は城内にて、相模守殿の看病に当たられよ。くれぐれも、くれぐれも相模守殿をよろしく頼む…。」
「ご両人のお頼みとあらば是非に及ばず。ではこれにて…。」
五郎殿の懇願に対して、越庵先生は一度深々と腰を折ると、すっくと立ち上がり、部屋を出ていった。
北条氏康の病気についてはそれなりに資料が残っていて、発病は8月6日、人の見分けがつかずまともに話せないなど、明らかに脳機能に支障をきたしていたと推測されます。




