#022 ミスマッチ?北条父子と今川氏真(後)
アルコールハラスメントは武士のたしなみ、伊達政宗の手紙にもそう書かれている。
「があっはっはっは!どうした上総介殿、盃が空いてるじゃねえか⁉そおら呑め呑め、江川の清酒は日の本一よぉ!」
蹴鞠が終わり、夜もすっかり更けた頃。私と五郎殿は北条氏康と氏政兄さんを始めとした、近親者のみが出席を許される夕食会に招かれていた。
そこで待ち構えていたのは、先程までの厳粛な雰囲気をどこかに放り出して、でかい声で五郎殿にアルハラを働く父上の姿だった。
「これはこれは、相模守殿に手ずから注いでいただけるとは…汗顔の至りにござる。」
「抜かしやがる、相模国の腕自慢、風流人どもを軒並みノしちまっておいてよ!」
「いやいや、そもそも舞台を設えていただかねば、拙者の才覚を披露するどころではございませなんだ…。」
インテリヤクザもどきの父上と、駿河で公家文化に精通した五郎殿とでは水と油かと思っていたが…意外とウマが合ったようだ。
「ちょっと…ちょっと、結。」
私を呼ぶ声に振り返ると、蘭姉様と凛姉様が深刻な表情で腰を下ろす所だった。
「どういう事?上総介殿が美丈夫だとは聞いていたけれど…まさか天用院殿に生き写しだなんて。」
「それは、その…世の中には奇妙な偶然があるもの、としか…。」
天用院殿――生前の名前は北条氏親。
氏康の跡を継ぎ、北条の次期当主となる将来を約束されていた筈の長兄は、元服から半年としない内に病でこの世を去った。これによって、次男だった氏政兄さんが新たに後継者に指名されるなど、その死は北条家に様々な影響をもたらした。
それは私も例外ではなく、戦国時代の命の軽さを痛感させられたのだが…まさか政略結婚の相手が死んだ兄にそっくりだとか、誰が想像出来るだろう。
「凛。そこを問い詰めても埒が明かないわ。それより問題は…父上のあの可愛がり様よ。」
父上と五郎殿の「じゃれ合い」に厳しい視線を送りながら、蘭姉様が言う。
「仰せの通り…まるで我が子を慈しむかの如き振る舞いにございます。」
実際には、私を含めて誰一人、あんな風に可愛がってもらった覚えは無いが。そんな注釈を心の中で付け加えながら、蘭姉様の懸念に同意を示す。
懸念と言うのは、端的に言えば御家騒動の心配だ。
北条家における政治、軍事の主導権は名実共に氏政兄さんに集約されており、氏政兄さんが急死でもしない限り家督争いが起こる事態はまず有り得ない。しかしながら、父上は未だに家中に影響力を持っており、その言動は決して蔑ろに出来るものではない。
…あくまでも仮定の話だが。
今は亡き長男にそっくりで才気に満ちあふれた娘婿(五郎殿)を気に入った父上が、適当な所領や役職を五郎殿に割り当て。それを基盤に五郎殿が北条家中での発言力を拡大し。氏政兄さんの息子で駿河奪還の旗印ともなっている国王丸殿の将来についてその言動が注目されるようになったりしたら。
…五郎殿は権力闘争のライバルと見なされ、最悪の場合粛清される恐れがある。当然、妻の私も、長男の竜王丸も危険だ。
ぶっちゃけ、そんな未来予想図は御免こうむる。
私の望みは第一に一家のんびりスローライフ、第二に五郎殿の駿河奪還である。下手に高望みをした挙句、実の兄に危険要因扱いされて処断されるとか冗談じゃない。
「…おや、左京大夫殿。浮かぬ顔にあられますな。」
父上が酔った勢いで余計な事を言い出しはしないかと警戒していると、当事者の一人である五郎殿が、氏政兄さんに目をやった。…氏政兄さんがいつにも増して仏頂面なのは、恐らく私達と同様の懸念事項に思い至ったからだと思うが。
人一倍人心の機微に敏感な五郎殿にしては、神経を逆撫でする言い方だ――と首を傾げていると、五郎殿は徳利を片手に席を立ち、氏政兄さんの膳の前に腰を下ろした。
「さあ、一献…左京大夫殿に酌をする栄誉を賜りたく。」
「…う、うむ。よしなに。」
いつも冷静な氏政兄さんが目をパチクリさせながら盃を差し出すと、五郎殿はいかにも自分が格下でござい、と言わんばかりの低姿勢で清酒を注いだ。
…突然だが、戦国時代の武士は(一部例外を除いて)面子を命と同様、あるいはそれ以上に重んじる。極論、「ナメられたら負け」「侮辱されたら刺し違えてでも屈辱を晴らす」という、暴力団かヤンキーみたいな価値観で生きているのだ。
そうなると自然、どっちが序列が上だとか、どっちが先に折れるべきだとか、そういう――当人達にとっては死活問題だが――ある種不毛な争いが割と頻繫に起こる。
そんな業界にあって、自分から進んで風下に入る五郎殿のアクションは、いっそ異常と言って差し支えないものだった。
「今日我ら一族郎党が早川郷に安住の地を得たるは、全て左京大夫殿のご高配によるもの。この御恩、『左京大夫殿の采配の下で』、鑓働きにてお返し申す。」
「…見上げた心意気にござる。大いに励まれよ。」
氏政兄さんが上、五郎殿が下。
あっさり格付けが済んだ事に、私と姉様達が拍子抜けしていると、父上がくつくつ、と喉を鳴らした。
「これからもよろしく頼むぜ、『上総介殿』。左京大夫殿を助けてやってくれ。」
その台詞は、父上が五郎殿と天用院殿とを混同などしておらず、家中の力関係を引っ搔き回すつもりはカケラも無い、というメッセージを如実に示していた。
私は氏政兄さんの眉間のシワが緩んだのを確認して、肩の力を抜き…ようやく落ち着いてお酒と料理を堪能する事が出来たのだった。
この日を境に、早川郷の屋敷には、北条の侍が引っ切り無しに訪れるようになった。「大宴会」で文武両道っぷりを見せつけた五郎殿に、その教えを請おうという侍達だ。
私は、技量向上のために頭を下げる北条の侍に、分け隔てなく指南をする五郎殿の楽しそうな様子を見ながら、こんな日々がいつまでも続いて欲しいと、密かに願っていた。
そんな希望が打ち砕かれたのは、僅か半月後。
父上が病に倒れたという知らせが、屋敷に届いた時の事だった。
今川氏真が北条氏親にクリソツだった、という設定は、氏真が北条家で厚遇を受けていたという流れに持っていくための一要素です。
今後はタイトル通り、スローライフに移行しそうで思い通りにならない、そんな展開になっていくと思います。