#205 恩讐の彼方へ(後)
天正四年、プロローグのエピローグ(ややこしい)。
「儂は、正しき道を歩めておるのであろうか。」
松平家忠殿とその家老、康親殿が帰路に就いた後。寝室の布団の中、その逞しい腕で私の肩を抱きながら、宗誾殿は呟いた。
どんなに絶望的な状況でも余裕たっぷりな態度を崩さない彼には珍しく、その声には迷いが滲んでいた。
「正しき道、と仰いますと?」
「言うまでもなく、詮無き事ではあるが…儂は様々な約定を違えて参った。父上の仇を討つと誓いながら、右大将殿に額づき…謀反人を討つと誓いながら、三河守様に額づき…その傘下に甘んじておる。来年には早四十路に入ると申すに…。」
私には、宗誾殿の内心を完全に把握する事は出来ない。
社会的には勿論、夫婦であり、親戚ではあるが…所詮私は宗誾殿の妻。国政や軍事行動の全権を担った経験が無い以上、その重圧を察する事は出来ても、理解する事は出来ないのだ。
「悔いておられるのですか?これまでの道程を。」
「…三河を失い、駿河を奪われ、掛川より落ち延びた。それより後の日々が無為無益だったとは口が裂けても言えぬ。されど、しばしば考えずにはおられぬ。もしもあの時、より賢明に立ち回っていれば。もしもあの時…。」
『あの時』が『どの時』を指しているのか、私には分からない。幾つか心当たりはあるが。
私から見て、宗誾殿はその時々でベスト…とまでは行かずとも、ベターな選択を続けていたと、そう断言出来る。
だが、戦国時代の『正しさ』とは『強さ』、そして『名将』とは『勝者』にのみ与えられる称号だ。ここ一番の大勝負に負けて、没落したという事は、宗誾殿は『正しくなかった』と…そう評されても仕方ないという事だ。
個人的には、今の生活に大して不満は無い。
領地が無いという事は安定財源が無いという事でもあるが、民政に頭を悩ませる必要が無いとも言える。我が家の稼ぎはほぼほぼ私の資産運用にかかっているが、こちらも大損害を出さずに続けられているので生活水準が低下する心配は当面しなくていい。
だから、このまま知行無しの状況が続いたとしても、私は一向に構わない、のだが…。
「もし、宗誾様が織田に成り代わり、天下人や武家の棟梁を目指すと仰せであれば…今からでも遅くはないかと。」
頭の中で素早く図面を描きながらそう言うと、宗誾殿は目を大きく見開いた。
「六年後の『本能寺の変』で右大将殿と秋田城介殿は落命。その後、織田家の家督を継承するのは秋田城介殿の嫡男、年少の三法師殿となります。そのお方に紬を嫁がせれば、私達が織田家の内訌に加わる余地が生まれましょう。」
「…成程。今川の姫を迎えるとなれば、織田も無下には出来まいな。されど、柴田、丹羽、羽柴といった重臣達が黙っておるとも思えぬが…?」
「右大将殿の仇たる明智日向守殿を討つのは羽柴殿…これによって家中の序列が乱れ、互いに疑心暗鬼となりましょう。その隙を突けば、天下の一国や二国を切り取るのも難しくはないかと。」
自分から言い出しておいて何だが、私はこの作戦が世のため人のためになるとは微塵も思っていない。
史実通りに事態が進行すれば、家康が日本統一を成し遂げて泰平の世を創ってくれるのだから、日本史にはカケラも登場しない今川家がリングに乱入して搔き回せばどんな結末をもたらすか分かったものじゃない。
だがしかし。
この世で一番愛する家族と、見ず知らずの無数の人々。どちらかを選べと言われたら私は前者を選ぶ。それが、戦国時代の終焉を遅らせる結果を招こうともだ。
宗誾殿が再び『テッペン』を獲りに行くと言うのなら、私は全身全霊でそれを支えたい。
「ふ…流石は結。儂の妻よ。成程、その策であれば…今一度、今川の名を日の本に轟かせる事も出来よう。ふむ…。」
宗誾殿はしばらく沈思黙考すると、いつもの仮面めいた微笑みではなく、満面の笑みを浮かべて私を抱き寄せた。
「礼を言うぞ、結。お陰で迷いは晴れた。」
「では、早速明日から仕込みを…。」
「いや、その必要は無い。天下の政局は不可思議千万…うかつに踏み込めばどのような逆風を食らうか分かったものではない。今しばらくは三河守様の器量を信じ、役目を果たして参ろうと思う。」
「…左様でございますか。申し訳ございません、差し出口を…。」
私が反射的に縮こまると、宗誾殿は優しい手付きで背中を叩いてくれた。
「お主が謝る事など無い。思い出したのじゃ…お主と共にある限り、儂はいつでも、何処にあろうとも、天下を、日の本を獲れるのじゃ、とな。」
「宗誾様…。」
「高みの見物と参ろうではないか。儂を踏み台にして覇道を邁進する者達が、いかにして乱世を終わらせるのか。その全てが過ちであると分かった暁には…その時こそ、天下を獲りに参ろうぞ。」
気力に満ちた言葉を放つと、宗誾殿は私の顔にそっと唇を近づけた。
私は僅かに首を傾げ、それに応じる。
こうして、今川家による天下争奪戦への参戦は――実現の可能性はともかくとして――無期限延期となったのだった。
今川家が婚姻関係を通じて天下争奪戦に参戦しようとしていた、というのは全く史料的裏付けの無い妄想で捏造です。
唯一付け入る隙があるとすれば、血筋に怪しい所がある織田家にハクを着けるために、名門今川家から嫁を取る、という政略が持ち上がったかも知れない…という想像をしながら書きました。




