#202 今川氏真の逆襲(後)
今川氏真、逆転の前奏曲(前奏曲で終わる可能性大)。
「慶事、にございますか?それは一体…。」
私が聞き返すと、宗誾殿は私達の次男――『登竜門』の故事にちなんで、鯉丸と名付けられた――を侍女に慎重に渡して、私ににじり寄った。
「うむ…今朝方儂が、三河守様のお召しによって登城したのは覚えておるな?」
「はい…いつものように、お知恵をお貸しになられたものと、そう存じ上げておりましたが?」
「左様、されど…その折に三河守様よりお話があってな。とは言え、まだ確と決まった訳ではないのじゃが…。」
いつにも増して勿体ぶる姿勢に少しイラつきながら辛抱強く待つと、わざとらしい咳払いを二三度してから、宗誾殿はようやく口を開いた。
「近々…城を一つ、任されるやも知れぬ。」
「え!…そ、それは、真にございますか?」
私は急いで声量を抑えた。
だが、興奮状態を解く事はとても出来そうにない。何しろ、宗誾殿が何年かぶりに一国…はまだまだ先だが、一城の主に返り咲けるかも知れないのだから。
「言質を取った訳ではないのでな…されど、十中八九間違いあるまい。」
「そ、それで…何処の城を任せていただけると?」
宗誾殿が城主になれると聞いて、次に気になったのはその場所だった。
武田の進攻を逃れるために駿河を脱出して以来、それなりに…それなりに苦労したという自負はある。百ちゃんを始めとした大勢の人々の助けを得て、十分過ぎる程快適に暮らしていたという自覚もだ。
そうは言っても、やっぱり日々の暮らしになるべく不自由しない所に住みたい、というのが本音だ。
具体的に条件を列挙するならば、平坦な地形に築かれた平城で、陸海の物流に優れた東海道沿いに存在する…そう、掛川城あたりが望ましい。
どんなに要害堅固でも、長篠城のようにスペースが限られていて、交通の便が悪そうな所は出来れば遠慮したい…まあ、家康の命令とあらば断れる筈も無いが。
「うむ。どうやら儂が任されるのは掛川城――」
「まあ…!」
「――の東にある牧野城、という事になるであろうな。」
思わず快哉を上げかけた私は、瞬間的に湧き上がった怒りを右の拳に込めて…結局、それを左の手の平にぶつけて発散した。
掛川城じゃないんかい!
「…あ、ええと…牧野城、でございますか?」
「元の名は諏訪原城。掛川城攻略のために武田が取り立てた城を徳川が攻め落とし…駿河攻めに備えて仕立て直したという話じゃ。」
宗誾殿の話を聞きながら、私は脳内にぼんやりと位置関係をイメージした。
家康の勢力圏は三河、遠江国の全域をほぼ取り戻しており、その東端は駿河国との国境にまで達している。残っているのは遠江の北部と南部、それぞれ一部分くらいのものだ。
だが、問題はその『南部の一部分』だ。私が知っている重要拠点だけ挙げても、小山城と高天神城の二城が残っている。
この二城の内、特に厄介なのが高天神城。東海道から離れた山岳地帯に築かれた堅城で、攻め落としても獲得出来る経済的利益はたかが知れているのだが、とにかく位置が良くない。
東海道有数の拠点、掛川城の南に存在しており、放置しておくと武田軍の出撃拠点として再利用される可能性があるのだ。攻め落とすのは難しいが放置する事も出来ない、面倒くさい事この上ない。
さて、宗誾殿が城主に任命される(予定の)牧野城は掛川城の東にある。まるで武田の領国に食い込むトゲのような位置に、だ。
ここを起点に武田を攻めるにはもってこいだが、武田の進軍が再開された場合、十中八九最初の攻撃目標になる。そう考えると、中々重要な拠点を任される…かも知れない訳だ。
「かしこまりました。では、屋敷を畳んで居を移す支度を…。」
「いや、実はな…お主らにはこのまま浜松に残ってもらう事になりそうでな。」
「え?」
納得半分、不満半分で承諾しようとした私に、宗誾殿は予想外の言葉を返した。
「牧野城は手狭ゆえ、というのが建前…儂の寝返りを防ぐために人質を取っておく、というのも建前…お主らの暮らしに不自由が無いよう取り計らってもらいたい、と…三河守様に頼み込んだ所、聞き入れてくださったのじゃ。」
「ま、まあ…!」
私は思わず口を覆った。
どこからどこまで本当か、定かではなかったが…私達家族の事を気遣う気持ちは本物だと、そう信じられたからだ。
「されどそれでは…牧野城へは宗誾様と、郎党の皆様だけで?」
「いや、それだけでは流石に心許ないのでな…与力を付けてくださるとの仰せであった。」
「成程、確かに…それで与力にはどなたが?」
宗誾殿の口振りが徐々に現実味を帯びていく様子に興奮を覚えながら、私は前のめりになって聞いた。
「む…それが、な…。」
え、何?
そこで言いよどむ事、何かある?
「東条松平家の甚太郎殿と…家老の左近将監殿、との事じゃ。」
「…え?」
東条松平家の家忠はともかく、家老の松平康親と今川家との因縁についてご存知の方はかなり少数派だと思います。
詳しくは次回以降お送りします。




