#201 今川氏真の逆襲(前)
今週分の投稿を開始します。
ようやく1576年に入り、区切りとなる1579年と1582年を目指して早め早めで進めていく予定です。
天正四年(西暦1576年)三月 遠江国 浜松
すっかり春の昼下がり。武田の脅威が遠のき、落ち着きを取り戻した城下町の賑わいを耳にしながら、私は引き続き布団に横たわっていた。
疲労感は残っているが、体は随分と軽くなっている。一人の人間を、無事この世界に送り出す事が出来たのだ。
「おう、おう、よし、よし…よくぞ無事に男子を産み落としてくれた。ようやってくれた、結…。」
我が子を両腕で包み込むようにしてあやしながら、傍らで胡坐をかいた宗誾殿がそう褒めてくれる。私はそれに、無言と曖昧な笑顔を返した。
戦国武将の価値観からすれば、後継者候補が二人以上存在する事は明らかにプラスと言っても差し支えないだろう。北条の現当主にして私の兄、氏政がいい例だ。
本来ならば父上から家督を継承する予定だったのは長兄――氏親だった。しかし彼は突然の病によって急死。代わって、あらかじめ同等の教育を受けていた氏政兄さんが後継者の証…即ち、『新九郎』の名跡を継いだ。
それが北条にとって最善の措置であった事は、現状が何よりも雄弁に証明している。駿甲相三国同盟の破綻、足利将軍家の没落と、戦国乱世の政治情勢が目まぐるしく変動する中、北条は領地の急拡大こそ出来てはいないものの、大きな内紛も敗北も無く権勢を維持しているのだから。
母上に留まらず、大勢の女性達に子供を産ませまくった父上の行動は、家督争いを始めとしたデメリットやリスクを大きく上回るメリットを北条にもたらした、という訳だ。
そんな訳で、戦国時代に生きる身としては、宗誾殿に褒められて喜ぶのが当たり前だ。しかし…私の前世は『現代日本人』。個人の自由や男女平等、といった価値観にどっぷり浸かった身としては、『男の子を産んでくれてありがとう』というメッセージにどうしても違和感を覚えてしまう、という訳だ。
そんな私の胸の内をそことなく察してくれたのか――前世うんぬんに関しては話した事が無いので知る由も無いが――宗誾殿は口をつぐんで咳払いをすると、強引に話題の転換を計った。
「これまでの慣例に鑑みれば、この子の世話も貞春に頼むが上策であろうが…いかがであろう。お主の目から見て…貞春にこの上務めを課すのは、酷であろうか。」
現状、貞春様は『保育園の園長先生』的なポジションに収まっている。私の子供のみならず、侍女、女中など、我が家の女性陣が産んだ子供達は、貞春様の主導、調整の下で相互に助け合いながら子育てに取り組んでいるのだ。
有り体に言って、我が家には産休はあるが育休は無い、と言っても過言ではない。勿論出産翌日からフルパワーで働け、みたいな職場環境にはしていないが、何しろ当家の主要財源は私の資産運用に依存している。損失が発生した場合にも備えなければならない以上、おいそれと新人を多数雇用する訳にはいかないのだ。
このご時世、人格に問題がある人材や敵のスパイが紛れ込む可能性も考慮しなければならないとなれば、尚更だ。
とにかくそんな訳で、貞春様がいなければ我が家はお終い、と言っていいレベルで貢献してもらっているが…客観的に言って、貞春様は『普通の幸せ』とは程遠い所にいる。
「貞春様にお伺いする必要はございましょうが…恐らく、快く引き受けてくださるものと存じます。今となっては、幼子の世話を焼く事こそ、彼のお方の本分にございますれば…。」
改めて前世を振り返ってみれば、『偉い人』というのは『他人に雑事をしてもらえる人』の事でもあった。洗濯物にアイロンをかけてもらったり、一日三食の食事を用意してもらったり、車の乗り降りでドアを開け閉めしてもらったり…庶民だってお金を払えば受けられるサービスではあるが、やはりそれとは一線を画すものだと思う。
何が言いたいかと言うと…貞春様も本来は『他人に雑事をしてもらえる人』だったという話だ。
厳密には、彼女にも少数の側付き侍女がいるので、実生活の何から何まで自分でやっている訳ではないのだが…ともかく、貞春様もかつては娘の世話を他人に任せる側だった。しかし、夫に先立たれ、実子に先立たれ…『現世の人間』としての幸せを諦めて出家した上で、陰から当家を支える道を選んだ…いや、選んでくれた。
それはそれで、当人も楽しそうだし、私達も大いに助かっているし、幸せの形は人それぞれだと思いたい、が…それでもやっぱり、何かの形でしっかりとお礼がしたいと時々考えてしまうのだ。
「確かに、な…儂もそろそろ考えておかねばならぬやも知れぬ。ともあれ、今はこの子…鯉丸の慶事を言祝がねば、な。」
「では、今宵の宴に備えて清酒の支度を…。」
人を呼ぼうと声を上げかけた私を、宗誾殿は片手を挙げて制した。
「慶事と言えば宴、宴と言えば般若湯…と言いたい所ではあるが。当面控えようと思うておる。」
「は…もしや、越庵先生より何か?」
もしかして、体調のどこかに不調が…?
そんな私の不安に、宗誾殿は破顔してみせた。
「いや、実は…もう一つ、慶事の知らせがあるのじゃ。」
今川氏真に訪れた吉報というのは、知る人ぞ知るアレです。
詳細は次回お伝え出来ると思います。




