#002 プロローグ(後)
主人公視点でお送りいたします。
「あ゛あ゛~疲れたんじゃあ~。」
公の場では到底出せない声を上げながら、布団に倒れ込む。
小田原城内は安全で便利なのだが、人目が多すぎて、迂闊に気を抜けない。その点、早川郷の屋敷は城下町の中心から離れているものの、気の置けない人と一緒に広々としたマイホームで暮らせるとあって、リラックスできる場所だった。
「此度もご立派でございました。湯浴みの支度が整うまで、どうぞごゆっくり…。」
侍女の中でも一番のお気に入りである、百ちゃんが優しく語りかけてくれる。
かつての絶頂期に比べれば、領地も財力も随分小さくなった。
けれど、今が一番幸せかもしれない――強がりでもなんでもなく、私はそう思った。
私は令和日本からの転生者、北条結25歳(数え年)。
関東イチの大大名、北条氏康の娘に生まれ、日本有数の名門今川家に嫁いだ私は、夫とのラブラブ生活とお金儲けに邁進する。
北条を架空の戦国大名と思い込み、歴史の流れを甘く見ていた私は、桶狭間の戦いが近づいている事に気付かなかった。
やがて今川家を取り巻く環境は悪化の一途を辿り、気付いた時には――掛川城に追い詰められていた!
圧倒的不利な状況のまま籠城を続けても、いずれは落城に追い込まれる。
北条の仲介で掛川城を明け渡す事にした私達は、その支援を確固たるものとするために、一人娘を北条の嫡男と婚約させて、北条領に転がり込んだ。
日本一の家族を守る、見た目は大人、頭脳は凡人、その名は――あ、もう言ったわ。
そんなこんなで実家に戻った私は、前線から距離があって比較的安全な小田原に小さな領地をもらい、今川家の正妻として駿河に住んでいた頃の激務から解放された穏やかな日々を送っている。
夫――今川五郎氏真は駿河の奪還を諦めていないため、北条軍の一武将として出陣中につき、小田原にはいない。
心配が無いとは言い切れないが、武士である夫に『行かないで』とも言えないし、あの籠城戦を乗り切った人がそう簡単に討死するとも思えない。私は私に出来る事を小田原で、早川郷でやっていくだけだ。
例えば、有力商人の外郎屋におねだりしてお金を前借りしたり。早川郷の領民にお米やお金を配ってご機嫌を取ったり。小田原城内で暮らす親兄弟とお茶したり…。
うん、ろくに仕事してないな私。
でももう本当に勘弁してほしい。桶狭間の戦いで義元殿が討死してからというもの、今川家には悪い事が続いて、こちとらへこまされっぱなしだったのだ。
もうあんなのは懲り懲り。大大名の妻じゃなくてもいいから、そこそこ働いて、衣食住に不自由しない暮らしを送って、子供たちをしっかり育て上げて、畳の上で死にたい。
…まあ、そんな平々凡々な願望さえ危うくするような歴史的イベントが、何年後にかは分からないが、確実にやって来るのだが…。
「まあ、何とかなるでしょ。」
私は着物にシワが着くのも構わず、掛け布団を抱き枕代わりにして畳の上でゴロゴロ寝返りを打った。
「今川家の全滅は回避できたんだし。このまま北条のお世話になりながらのんびり暮らすのも悪くないわよね~。」
「奥様が心安らかであられる事こそ、わたくしの仕合せにございます。」
戦国武将の妻として落第間違いナシの私の発言に、百ちゃんは全面的に肯定の意向を示してくれたのだった。
これは、有能な転生者が大それた目的のために死力を尽くして戦う物語ではなく。
凡庸な転生者が過酷な生存競争から一抜けしてのんびりスローライフを送る、それだけのお話である。
…だよね?
※違います。