#018 今川氏真の帰還(前)
ようやく主人公の配偶者である今川氏真が本格的に登場します。
元亀元年(西暦1570年)七月 相模国 早川郷
「ただいま戻ったぞ、結。」
屋敷の玄関でそう言って笑う男性を前に、私はあふれ出そうになる涙を必死にこらえた。
きっと無事だと信じていた。けれどどこかで、万が一という事もあり得ると不安に思っていた。その心配全てを払拭する「現実」が、私の目の前にいる。
「…ご無事のお戻り、お喜び申し上げます。お待ちしておりました…上総介様。」
そう言って三つ指をついて頭を下げる。
その向こうに立つのは今川五郎上総介氏真――今世における私の夫である。
「顔を上げてくれ、結…。」
言われた通りに頭を上げると、五郎殿は私を優しく抱きしめた。
「よくぞ身重の体で、屋敷を切り盛りし、紬と竜王丸を守ってくれた…流石じゃ、儂は三国一の果報者じゃ…。」
惜し気なく褒め言葉をくれる五郎殿の体からは、臭い消しの香りでも隠し切れない、血と汗と泥の臭いがした。
本来なら不快に感じるはずのそれが、何だかとてもいとおしかった。
「私一人の力量では到底成し得ぬ仕儀にございました。家中の皆と、北条の支えがあればこそにございます。」
「兄上、ご無事のお戻り、何よりにございます。竜王丸殿はこれに…。」
後ろに控えていた貞春様が、抱っこしていた竜王丸をうやうやしく差し出すと、五郎殿は壊れ物を扱うようにそっと受け取り、息子の顔を覗き込んで破顔した。
「おう、おう…お主が竜王丸か。儂が父の上総介じゃ。健やかに育てよ…。」
初顔合わせもそこそこに、竜王丸を貞春様に返すと、五郎殿は少し事務的な顔つきになった。
「帰って早々にすまぬが…皆疲れておる。膳はあるか?」
「勿論にございます。新鮮な海の幸を五万と取り揃えておりますゆえ…どうぞ皆様、広間にておくつろぎください。」
後半を少し大きな声で言うと、外で待機していた五郎殿の家臣達が、歓声を上げた。
ややあって、私は広間の上座に五郎殿と並んで座り、下座で左右に分かれて座る家臣達の様子を眺めていた。
「これが小田原の鮮魚…舌の上でとろけるようにございます。」
角張った顔をほころばせながら素敵なレビューを披露しているのは、朝比奈甚内泰寄殿。今川家を代々支えてきた朝比奈一族の一人で、没落の一途をたどる主家に今なお忠節を尽くす忠臣だ。
武勇はまあ…それなりといった所か。
「拙者は蒲鉾が気に入ってござる。じんわりと染み出るこの旨み…。」
泰寄殿に似た目を輝かせているのは、弟の朝比奈弥太郎泰勝殿。広い視野を持ち、しばしば五郎殿から臨時に軍勢の指揮を任される事もある。
…と言っても、現状今川家が動かせる兵力は四桁行くか行かないかなので、大軍を指揮した経験は無いのだが。
「駿河を思い出しますな…御前様の料理は家中の憧れにございました。」
「相模でもこうして口にできるとは…死力を尽くしたかいがあったというもの。」
私の――厳密には我が家お抱えの厨人の腕前を褒めてくれたのが、弓の名人である蒲原助五郎殿と、鑓の名人である岡部三郎兵衛尉殿。ここにいる家臣の中ではトップクラスの武勇を誇る――が、百発百中とか一騎当千とかいうレベルで抜きん出ている訳ではない。
その他、富永右馬助殿や富士信通殿など、五郎殿に忠誠を誓った家臣はまだまだいるが…。
「皆、此度の戦でもよく働いてくれた…いずれ必ず報いよう、今日はよく食べ、飲み、鋭気を養うがよい。」
五郎殿の声は決して大きくなかったが、不思議と広間によく通った。それに家臣の皆は「応!」と元気よく答え、食事を再開する。
…私は軍事のプロフェッショナルには程遠いが、掛川城での籠城戦で本物の合戦を身近に感じて、分かった事がある。それは、今の今川家臣団は、周囲の大名家に比べてほぼ全ての分野で劣っているという事だ。
断っておくが、私は戦国武将に全然詳しくないし、他人の能力を数値化して見られるチート能力も無い。
しかし、しかしである。
武田、徳川、織田、上杉、そして北条…実際の戦歴を見たり聞いたりする限り、これら「勝ち組」の家臣達に、今川家臣団は遠く及ばない。当てになるのは苦境でも逃げ出さない忠誠心と、そこそこの武勇、そこそこの指揮能力、そこそこの事務処理能力と言っても過言ではない。
だが、「それなりに有能かつ忠節が期待できる人材が一定数存在する」だけでもありがたいと思うべきなのだ。
…ここに産まれたてホヤホヤの武士の男の子が一人いると仮定しよう。この男の子、元服まで無事に成長する保証は一切無い。何しろ医療が未発達な時代で、病死も珍しくないのだ。
さて、この子が15歳になって元服し、一人前の武士の仲間入りをしたとしよう。そこにやって来るのが実戦という過酷な洗礼である。
戦場に立てば誰もが平等、身分が高いから、まだ若いから…そんな理由で手加減してはもらえない。二十歳を迎える前に討死だってあり得る。
特に桶狭間の戦いのような激戦ともなれば、由緒正しい家の重臣が軒並み討死して、あちこちの親戚から後継者を引っ張り出さないと家督の穴を埋められない、みたいな事態が起こり得るのだ。
こうなると、「ウチにも本多忠勝みたいな家臣がいればな」なんて高望みをしている場合ではない。ある程度武士としての振る舞いが出来て、それなりに信用がおけるとなれば、とりあえず採用、くらいの採用基準で補充しないと間に合わないのだ。
そうでなくても、今川家が没落する最後のひと押しになった武田信玄の駿河侵攻の際には、有能だが野心(向上心とも言える)にあふれた重臣達が大勢寝返ったのだ。それを思えば、能力的に物足りなくとも、没落した主君への忠誠を曲げずにいてくれる上級武士が一定数いる現状は恵まれていると言っても過言ではない。
…と、賑やかな酒宴の様子を見ながらニコニコしていた五郎殿が、私の心の中を見透かしたかのように、こちらに顔を寄せた。
「誰も彼も、二度とは得難い武士じゃ。かように落ちぶれた暗君など見捨て、武田や徳川に走っても誰が咎めようか。…なればこそ、儂は皆に報いねばならぬ。何年かかろうとも、きっと…手を貸してくれるか。」
「無論にございます。上総介様の行く末、どこまでもお供いたします。」
五郎殿の手をぎゅっと握り返して、そう答える。
状況が圧倒的不利である現実は百も承知だ。でもそれは、五郎殿を見限ったり、その理想を否定したりする理由にはならない。
だって五郎殿は、前世から今世に至るまでに出会った中でも最高の、スパダリイケメン夫なのだから。
拙作における今川氏真は、文武両道で人格者だけれども、野心が乏しかったり、肝心なタイミングで不運に見舞われたりといったツキの無さが原因で没落した、というキャラクターになっています。
「小説家になろう」界隈では異端よりの造形かもしれませんが、読者の皆様の癖に刺されば幸いです。




