#161 長篠で梟が鳴く夜は(中)
【悲報】武田軍の内情不明【マジで?】
「詰まる所…武田の警固が厳重であるため、甲州勢の内訳が掴めぬと…そう申しておるのか。」
泰勝が片手で眉間をもみほぐしながら確認すると、九十九は弱々しく頷いた。
「はい。昼は雑兵足軽が隙間なく四方を固め、夜は武田の忍び…透波が目を光らせてございます。遠目に陣立てを確かめるのがやっとで…。」
自身の目算が外れた事に、泰勝は動揺を隠せずにいた。
相手の兵力や配置を全て把握した状態で、戦が始まる事は滅多に無い。忍びや物見を放ち、相手の様子を探り…それでもなお、実際に戦端が開かれれば、思いも寄らない方面から敵兵が現れる事など幾度もあった。
だが、これまでは…今川氏真に付き従って参陣した戦では、予想外の展開を前にしても、氏真が取り乱した事は一度として無かった。
(いや、或いは…それこそ氏真の胆力の成せる技であったろうか。)
泰勝が率いる兵は僅か百名。織田徳川連合軍、総勢三万七千の内の、百だ。本格的な戦力の削り合いに巻き込まれれば、たちまちの内に雲散霧消してしまうだろう。
だがその『たった』百名を統率し、戦意を維持し続ける事の何と難しい事か。
この上、相手の兵力や陣形も分からないまま決戦に臨むと考え出すと、泰勝の憂いは深まる一方だった。
「時に、弥太郎様…お身方は明日、どこまでお進みに?」
泰勝が顔を上げると、九十九は机の上の地図を覗き込み、味方を表す白い駒を凝視していた。
織田徳川連合軍の最優先目標は何を置いても長篠城救援である。それを踏まえて考えれば、いつまでも連吾川の西岸に留まっている理由は無い。
定石で考えれば、明朝長篠城に向けて再度出発する以外に、信長と家康の選択肢は無い、筈なのだが…。
「いや、それが…土をかき上げるのみならず、柵まで組み立てよ、とのお達しでな…三河守(家康)様も、弾正忠(信長)殿も、二日はここに留まるお積もりではあるまいか、と…。」
泰勝は当惑を隠し切れないまま、九十九に倣って図上の白い駒を見つめた。
城や寺といった拠点に宿泊出来ず、野営する事になった軍勢は、有り合わせの資材や即席の土塁、空堀を用いて、夜襲に備えるのが原則だ。しかし、何らかの理由で駐留が長引く場合、将兵には防備をより一層強化する創意工夫が求められる。
敵兵の侵入を防ぐための柵を組む、空堀をより広く、深くするなどの創意工夫が、である。
こうした指示が駐留初日から発出されているという事実は、長篠の落城が差し迫っているにもかかわらず、連合軍首脳部がこれ以上の接近を中断したという冷徹な現状の証左に他ならなかった。
「昼に、甲州勢の陣間近へと、鉄炮放を押し詰められたようですが…。」
「ああ、うむ…弾正忠殿の指図でな…されどその者らも、道の険しさゆえに進むも退くもままならず…甲州勢に見つかって這う這うの体で逃げ帰って参った。一体何がしたかったのやら…。」
やれやれと首を振る泰勝を見つめていた九十九は、おもむろに口を開いた。
「ともあれ…わたくしは今一度長篠城に近付き、武田の様子を探って参ります。また明日の晩、こちらに伺っても…?」
「うむ、頼んだ。敵方の備えが分からぬ事には策の立てようが無い…吉報を待っておるぞ。」
泰勝に向かって頭を垂れながら、九十九は頬被りを被り直す。
その口元は、三日月のような弧を描いていた。
半刻後、九十九は長篠城の程近く…滝沢川の西岸に立っていた。
闇の中から滲み出るように現れた男…武田の透波を取りまとめる、組頭が厳かに口を開く。
「どうじゃ、九十九…徳川に付け入る隙は見つかったか?」
「ええ、いとも容易く…此度こそ、目に物見せてご覧に入れましょう。」
醜い痣が刻まれた顔を歪めて嗤う九十九の様子に、組頭は満足気に頷いた。
国家による個人情報の登録に始まり、小学校での教育や練兵場での集団行動を通じて徹頭徹尾規律を叩きこまれる近代軍とは異なり、中世の軍隊はかなりルーズだったようです(例外はある)。
雑兵足軽が文字通り人数合わせだったり、兵糧不足や戦況の膠着で勝手に離脱したり、かと思えば手柄を立てようと呼んでもいないのに押しかけて来たり…そういう訳で、当時の合戦の兵員数がキッチリ三万七千とか二万とかになる事はまず無かったでしょう。




