#016 小田原城でお茶会を(中)
北条氏康の次女と三女は、女性の情報が乏しい戦国時代にあって御多分に漏れず分からない事が多いです。
生没年不詳。結婚相手はほぼ確実。夫が死んだ後の動向は不明瞭。
なので道徳にうるさい姉と、派手好きな妹というある種テンプレ的な組み合わせになっています。
「お茶会」とは、敵対勢力の諜報機関の目を誤魔化すために名付けられた、北条領内における経済政策決定会合の暗号である――という訳では全くない。
結論から言えば、完全に成り行きである。
少し話が長くなるが、大した転生チート能力も戦国時代に関する知識も無い私が、今世において明らかに爪あとを残したと言えるのが「株札」である。
これはいわゆる「株式会社」のシステムを模倣、はっきり言えば劣化コピーしたもので、戦国大名の親族や寺社といった有力者が商人などから出資を募り、その貢献度に応じて経営に参画する権限を保証する「株札」を配布、これを保有する人同士の合議で商会を経営する…という仕組みだ。
日本全国を統治する政権が存在しないこの時代において、武力や権威による保護を必要とする商人と、安定した不労所得を得たい支配階級との利害が上手く噛み合い…「株札」を用いた商会は駿河国から東海道、日本全域へと広がっていった。
北条領において株札を用いた資産形成に成功したのが、私の腹違いの姉、凛姉様である。
というのも、凛姉様は幼い頃からオシャレが大好きだったのだが、普通に結婚生活を送っているのでは服飾品を思う存分買えないという現実に直面してしまった。そこで、坂東一帯の商人達に片っ端からモーションをかけまくり、幾つかの失敗と、それを補って余りある成功を収め…誰に気兼ねする事なく贅沢が出来る身分になったという次第だ。
そんな凛姉様が小田原に戻った時、そこには血縁関係の近い成人女性二人がいた。言わずと知れた、本城御前様と蘭姉様である。
母上は奥向きの差配を御前様――現当主、氏政兄さんの妻に譲ってサポートに回っていた所に、例の同盟破綻と氏政兄さんの離縁でまたも実務の実質的な責任者となってしまい、蘭姉様がその補佐に当たっていた。
しかし――私も今川家で散々経験したのだが――武家の交友関係には公費でまかないきれない場面も多々存在する。
そこで母上と蘭姉様も、自分達の権限の及ぶ範囲内での「小遣い稼ぎ」――株札の運用に踏み切り…いつしか小田原を中心とした北条領内の経済に、血のつながりの無い三人母娘が大きな発言力を持つに至った、という訳だ。
ちなみに、他の姉妹は血のつながりがどうこう以前に、他の家に嫁いでしっかり奥さんをやっていたり、年齢が低すぎて「大人の会合」には不適格と見なされていたり、といった理由で「お茶会」に参加出来ない状態だ。
さてそこにノコノコやって来たのが、義姉二人を差し置いて玉の輿を決めた挙句に嫁ぎ先を傾けて逃げ帰って来た四女…つまり私である。
早川郷での当面の生活費、そして食うに困らない生活を確保するための資産運用の軍資金を必要としていた私に、凛姉様は借金の口添えをした上でこんな条件を突き付けて来た。
「此度の動乱のあおりを食らって、経営が厳しい商会が幾つかあるの。これを立て直してくれたら、アタシへの借りは帳消しにしてあげる。期限はそう、今年の六月末日までに。…もし間に合わなかったらアンタは死ぬまでアタシの手下よ、精々励みなさい。」
こうして経営コンサルタントの真似事をする羽目になった私は、北条家の外交方針と今川家にいた頃のコネをフル活用して、どうにか『宿題』を期限内に終わらせる事が出来た、という訳だ。
そして現在。
「貴女は本当に銭にうるさくなって…仮にも妹、情けは無いのですか?」
「蘭姉様の仰る事ももっともだけど…約定、特に銭に関する約定を守るのも大切よ?それを守らないと、信用を失う…信用なくしていかなる取引も成り立たない。まさかとは思うけれど、北条の名を笠に着て値切ったり、高値で売り付けたりしちゃいないでしょうね。」
「まさか、貴女じゃあるまいし…。」
「はぁ?アタシがいつそんな横暴を振るったって?…言ってみなさいよ、アア?」
幼少期と同様にヒートアップしつつある姉妹喧嘩を前に、私は口をつぐんで必死に成り行きを見守った。
正直どっちにも筋が通っていて、一方への肩入れは難しい。
血縁関係を理由に助けてもらいたいのも本音だが――既に早川郷の整備を始め、存分に便宜を図ってもらっているのは分かっている――駿河国で商人達と浅からぬ付き合いがあった身としては、契約を守る大切さも身に染みている。
どうしたものか…と悩んでいると、部屋の中に場違いな笑い声が聞こえて来た。
「ふふふ…おほほほほ…ああ可笑しい、おほほ…。」
予想外の事態に、蘭姉様も凛姉様も喧嘩を中断して上座を見る。
私も含めた三人分の視線の先には、今にも畳を叩いて笑い転げそうな母上の姿があった。
関所の廃止と言えば織田信長の政策が有名ですが、北条でもかなり進んでいたのではないかと思われます。
関所を設ける主体としては国衆、足軽などが考えられますが、領内の経済振興や配下の収入管理といった観点からすると、北条にとって邪魔な関所が多かったと考えられるからです。
よって拙作では、北条領内には関所がほぼ無かった、という前提で話を展開しています(ヨソは関所がありまくりなので、そこでの関銭徴収からは逃れられませんが)。




