#159 朝比奈泰勝の登竜門(後)
朝比奈泰勝、一世一代の勝負所。
「弥太郎が兵の半数を率いて長篠に向かい…」
「殿は牛久保の留守居に残られる…?そ、それは一体…?」
岡部三郎兵衛尉と蒲原助五郎の動揺を背中で感じながら、朝比奈泰勝もまた戸惑いの渦中にあった。
今川家が今回動員出来た兵力はおおよそ二百。二万、三万と号する織田、武田の戦で存在感を発揮するには心許ないが、まともな知行も無い身の上で赤羽陽斎に銭を託し、どうにかかき集めた戦力だ。
しかし、それを更に分割するとなれば…氏真が直率する隊も、自身が預かる隊も、戦力の低下は避けられない。いや、それ以前に…。
「お、お待ちあれ!この弥太郎めに兵の半数を預けるとは…如何な了見で⁉」
泰勝は悲鳴のような声で問い質した。
武田信玄の調略で今川家臣団の大部分が離反したために、泰勝らの序列が繰り上がって以降、氏真から臨時の措置として軍の指揮権を預かった事は何度かある。個人的武力に秀でた氏真が、しばしば最前線で刀槍を振るう事を好むからだ。
だがそれはあくまでも臨時の措置だ。家格は十分だとしても、自前の所領を持っていない泰勝が兵の半数を率いるとなると、説得力に欠けると言わざるを得ない。
「理由の第一は…弾正忠殿の懸念も的外れとは言い難い事がある。現に、甲州勢は長篠城を囲む一方、あちこちで刈田狼藉を働いておるようであるし…もし牛久保の備えが手薄であれば、武田四郎が一千か二千でも差し向けて来た場合、真に落城しかねぬ。それゆえ、儂は赤羽陽斎と共に牛久保に残る。織田の将と合力すれば、三河守様も心置きなく戦えるであろう。」
誰かが牛久保に残る必要がある、それは分かった…と言わんばかりに沈黙する三人を見渡してから、氏真は再び口を開いた。
「第二に…これは其方らが功名を上げるまたとない好機である。三河守様は勿論の事、弾正忠殿の目に留まれば…知行を得る事も易かろう。」
「それは…されば殿こそ…。」
自身の出世欲と、主君への配慮との間で揺れ動く泰勝に、氏真は微笑みながら首を振った。
「儂は既に三河守様と弾正忠殿より約定を取り付けておる。武田を打ち払った暁には、駿河一国を頂戴する、とな…まずは其方達からじゃ。」
「…殿のご厚情、筆舌に尽くし難く。されど…。」
「この三郎兵衛尉と助五郎に、弥太郎の指図に従えと仰せで?」
控え目ながら不満のこもった二人の口振りに、泰勝は冷や汗を流した。
自分達三人の間に、確固たる上下関係がある訳ではない。同格と思っていた泰勝にあれこれと指図されるとなれば、二人は当然面白くないだろう。
「三郎兵衛尉…お主は徳川家中でも屈指の槍の名手じゃ。されど…敵将と槍を合わせながら、采配を振るう事など出来ようか?」
「そ、それは…。」
「助五郎、お主の弓の腕前は誰もが認める所…されど、ただ一人に狙いを付けて弦を引きながら…百の兵に号令を下す事など出来ようか?」
「くっ…。」
返答に窮した二人から視線を切った氏真は、泰勝の顔を真正面から見つめた。
「弥太郎、お主は武芸において抜きん出た所は無い、されど…日頃より周りに気を配り、時勢の移り変わりを抜け目なく捉えておる。さればこそ、お主に兵の半数を託したい。」
「…左様な大役、拙者に務まりましょうや?」
こういう所が自分の短所だと、内心で自嘲しながら泰勝は言った。
立身出世を志す武士は、煌びやかな具足を身にまとい、目立つ旗指物を背負い、死地に進んで身を投じて功を成し、それを声を大にして強調しなければならない。
所領も官職も有限である以上、競合者に劣らぬ功績を上げ続けなければ、立身出世どころか士分の暮らしを保つ事すら難しいのだ。
「お主だからこそ、任せられる。…手勢は僅か百、駆け引きを誤ればたちまちの内に四散の憂き目に遭うであろう。敢えて命ぜずとも、軽挙妄動を慎む所こそ、お主の長所じゃ。」
氏真は上座から立ち上がると、三人の肩を力強く叩いて回った。
「三郎兵衛尉、槍働きに専心せよ。大将首を取るのじゃ。助五郎、弓の腕を見せよ。百の兵の進退はお主に掛かっておる。そして弥太郎、どうしても不安が拭えぬと申すのであれば…明朝までに、儂が『知恵袋』を用意する。」
「知恵袋…?」
「長篠で起こり得る事について、儂があらかじめ手立てを考え、記しておく。無論、戦が思い通りに運ばぬ事など茶飯事ではあるが…多少は役に立つであろう。皆、頼んだぞ。」
氏真が念を押すと、三人は深々と平伏してそれに答えた。
翌朝、牛久保城を出て北に向かう軍勢の中に、二人の同輩と百の兵を率いる泰勝の姿があった。
泰勝は一度だけ城門を振り返ると、その後は二度と振り向く事無く長篠へと歩を進めていった。
念のため申し上げますと、口約束はおろか花押入りの感状でも、軍功が確実に認められるとは限らない、という当時の現実は承知しております。
信長の場合は特に、その場の雰囲気で『天下一』を連発したり、まだ制圧していない敵地を知行として与えたりといった事をしていたようですし…。
ただ、氏真はどうも『有能ではないが忠実』な家臣に甘い傾向があったようなので、このような筋立てになりました。




