#155 決戦前に、ひと休み(前)
今川氏真、帰宅する。
五月に入ってしばらく経ったある日、私と子供達、そして貞春様は自宅の広間にいた。
上座にはこの家の主、宗誾殿がいる。およそ四か月の上洛を終え、ようやく帰って来てくれたのだ。
「皆、よう辛抱してくれたのう。礼を言う…。」
「殿こそ、長旅にも関わらずご健勝の様子…無事のお戻り、心よりお慶び申し上げます。」
「「心より、お慶び申し上げます。」」
私に続いて紬と竜王丸が定型文的な挨拶をすると、宗誾殿は微笑みながら二度三度と頷いた。
「うむ、うむ…この落ち着き振りよ。結よ、お主が確と留守を守っていてくれたがゆえであろう。かたじけない。」
「有難きお言葉…されど、紬と竜王丸殿の面倒は専ら貞春様が…。」
「おお、左様か。貞春、此度も大儀であった…何か所望の儀はあるか。」
聞きようによっては白々しいやり取りだが、こうして事あるごとに『いつもの事』を確認し、その働きぶりを評価する事が大事だと、私は思っている。
前世で精一杯やった仕事を評価してもらえず、時には『この程度、出来て当たり前』みたいな事を言われた身としては、なおさらこういう場があった方がいいと思えるのだ。
「では…ご多忙の身とは存じますが、紬姫様と竜王丸様のお相手をお願いしたく。殿が見聞きしたあれこれを、お二人に語り聞かせてくださいませ。」
「ふ…お主はまこと慈悲深い女性よな。相分かった。それはそれとして…大和国の高僧も愛用との触れ込みで売られておった筆と硯を買って参った。お主が気に入ればよいのじゃが…。」
「まあ、それは…有難き仕合せ。大事に使わせていただきます。」
出家の身である貞春様に、化粧品や華美な装飾品は不適当。そこで、実用品だけど高品質のものをお土産にしたという訳か…。
「竜王丸、紬、それに勿論、結にも土産を用立てたゆえ…楽しみにしておくが良いぞ。」
一通り再会の挨拶を済ませた後、私は自室に戻る宗誾殿に同行し、室内で向かい合うように座った。
「改めて…無事のお戻り、お慶び申し上げます。」
「いや…全てお主が尽力してくれたお陰じゃ。費用の事と言い、徳川を陥れんとした謀を防いだ事と言い…ひとまず、これを受け取ってもらいたい。」
自室に運び込まれた小箱の山から、宗誾殿が一つ持ち上げ、私に差し出す。
「京の茶人にもらった茶碗じゃ。気に入ってもらえれば良いが…。」
「拝見します。」
私が出したお金で私へのお土産を買うという笑い話みたいな行動に走らなくて良かった…と思いつつ木箱を開けると、中には茶碗が一つ入っていた。
慎重に取り出して、全体を観察してみる…肉厚でずっしりとした茶碗だ。覗き込むと、真ん中から白と黒に分かれており、パッと見白い茶碗と黒い茶碗を真っ二つに割って、接着したようにも見えるが…よく見るとその境界は滑らかかつ曖昧で、最初からこの色合いなのだと無言で主張しているように見えた。
「良い名を付けて使って欲しい。さて…文でも知らせたが…お主と天下を引き換えてもよい、などと弾正忠殿に申し出た事、面目次第も無い…。」
子供達の前で見せた威厳に満ちた態度とは打って変わり、深々と頭を下げる宗誾殿に、私はあらかじめ用意していた返答を返した。
「どうかお顔をお上げくださいませ。事と次第によっては天下や名物と取り換えになる所だったと聞けば、心穏やかではいられませんでしたが…相手はあの弾正忠殿。生半可な心構えでは歯が立たなかったであろう事、心得ております。」
「…弾正忠殿が天下を捨て、お主を選ぶなど万に一つもあるまいと踏んではいた…されど万が一、お主を弾正忠殿に進上する次第となれば…その折は手を尽くし、万難を排して取り戻す。それが儂の覚悟じゃ。」
宗誾殿の言葉に舞い上がりそうになるのをこらえて、わざとらしく唇を尖らせる。
「まあご立派な申し様で…されど、どこまで信じてよろしいものやら。此度の上洛から下向にいたるまで、毎晩のように宴を開き、遊女を呼んでいらっしゃったようですし…。」
「そ、それは場を盛り上げるため致し方なく…天地神明に誓って、儂は遊女に指一本触れておらぬ。」
胸を張って断言する宗誾殿に、私は息がかかりそうな距離までにじり寄った。
「では今宵…宗誾様の体を検めさせていただいてもよろしゅうございますか?隅から、隅まで…。」
私が吐く息の湿度の高さにあてられたのか、宗誾殿はどろりとした熱の籠った瞳で私を見つめ返した。
私は鼓動の高まりを感じながら、長旅で疲れているであろう夫にどうやって「参った」と言わせてやろうかと妄想を膨らませていった。
(18禁展開は)無いです。




