#150 心せよ、亡霊を装いて戯れなば(後)
コン・ゲーム、解説編。
「御前を騒がせた事、お詫び申し上げまする。」
その言葉を聞いた時、築山殿の恐慌は頂点に達した。
氏純が口寄せで蘇ったかと思えば、起請文に署名する直前に西慶が喚き始め…それを宥めに向かった筈の菖蒲が、九十九を昏倒させてしまった。
そして、西慶は菖蒲と協力して九十九を縛り上げ…冒頭の言葉を放ったのだ。
「さ、西慶殿?日本語が不如意と、そうお伺いしておりましたが…?」
「それは武田の忍びを欺く仮の姿。仲間内では西京と呼ばれておりまする。」
「わたくしからも、お詫びを…長らく大奥様を謀る仕儀となり、申し開きのしようもございませぬ。」
老爺の面を剥ぎ取られ、巫女装束の上掛けを脱いだ菖蒲の顔を見て、築山殿は絶句した。
「貴女は、早川殿の側付きの――百殿⁉い、一体、何時の間に成り代わったと…!」
「『九十九と菖蒲』が初めてお目通り叶った、その前からにございます。」
『元』風魔忍者にして早川殿側付きの侍女、百が動き出したのは、今年の正月、三河国に甲斐出身の口寄せ巫女が多数来訪しているとの知らせが舞い込んですぐの事だった。
およそ十年前、甲斐武田と駿河今川との関係が悪化した時分から、甲斐出身の口寄せ巫女は徐々に駿河での活動を活発化させていった。そして、いざ氏真と信玄が直接対決で雌雄を決せんとしたその時、今川の主だった将が足並みを揃えて寝返った…。
こうした経緯を踏まえれば、口寄せ巫女が武田の手先であろうとなかろうと、水面下で謀略が進行している事は火を見るよりも明らかだった。
その詳細を確かめるべく、沓谷衆の助けを借りて密かに駿河へと潜入した百が出くわしたのが、築山殿に近付く口実を探していた歩き巫女――菖蒲だった。
百は菖蒲を捕らえ、心身を痛めつけて武田の狙いを聞き出すと同時に、その為人を暴いてすり替わる準備を着々と進めていった。徳川家を搦手から切り崩すという謀略の概要は掴めたものの、築山殿と接触した後何を持ち掛けるのか、菖蒲はまるで知らなかったからだ。謀略の全容を暴き、黒幕に武田が潜んでいるという確たる証拠を掴むためには、『歩き巫女の菖蒲』に変装して上役である九十九に張り付く他無かった。
こうした百の苦労が功を奏し、九十九はこの数か月間、菖蒲が別人にとって代わられている可能性など、微塵も想像しなかった。
そして今日、武田勝頼が陰謀の黒幕であるという物証が表に出た事で、歩き巫女の菖蒲は正式に死ぬ事を許された。本物は駿府でとっくに息絶えているが。
「この起請文は、武田の謀の証としてお預かりします。くれぐれも軽挙妄動は慎まれますよう。岡崎にて謀反の企てありと、既に三河守様のお耳に届いてございます。今頃は謀議に加担した者達も、皆縛に付いておりましょう。」
一方、その頃。
「大岡弥四郎、神妙にせよ!上意である、お縄に付けえ!」
「山田八蔵、この…うろたえ者めが!我が一刀にて斬り捨ててくれガハァ!」
「あ、赤羽陽斎殿…。お見事、まさかあの弥四郎が峰打ち一つで倒れるとは…。」
「八蔵殿、疾く、縛り上げられよ。こうなったからには一人でも多く謀反人を捕らえねば…貴殿の咎を帳消しには出来ませぬ。」
「わ、わ、分かっておる…もう、迷いはせぬ。わしも、弥四郎達も、分不相応な望みを抱いてしもうた…も、もう迷わぬ。わしの主君は三河守様ただ一人じゃ…。」
「…フ、少し羨ましゅうござるな…さあ、次に参りましょうぞ。」
「結局…此度もわたくしは余計な事をして、三河守様の足を引っ張り…早川殿に後始末をしていただいたという訳ね。ふ、ふふふ…何て愚かしい。詰まる所、二十年前の二の舞ではないの。」
およそ二十年前、関口氏純の庇護の下で暮らしていた築山殿は、行き過ぎた慈善事業で実家に多大な迷惑を与えた末に、早川殿の差配で窮地を切り抜けたという経緯がある。
その際の不甲斐なさを思い返して、築山殿は自嘲の笑みを漏らした。
「それは『まだ』…些か早計かと。」
意外な言葉に築山殿が顔を上げると、百は膝を折り、視線の高さを合わせてから続けた。
「わたくしは早川殿の指図の下、徳川が勝ちを得るために万策を講じまする。されど、大奥様が三河守様を見限り、三郎様を立てて徳川の存命を図ろうとなさった事…誰が浅慮と断じられましょう。」
「やめて頂戴。自分が惨めになる…わたくしは三河守様に逆らって、負けたの。今すぐ喉を突いてしまいたい…。」
「『死のふは一定』…なれど、大奥様にはまだ務めがございます。何卒、此度の一件に始末を着けるべく…主と面談いただきたく。」
築山殿は汗ばんだ手で握り締めていた短刀から、ゆっくりと手を放した。
「そう、そうね…ここでわたくしが喉を突いても、見せしめにならないものね…分かった、分かったわ。早川殿のお越しまで、謹慎する事といたしましょう。」
武田側の首魁であった歩き巫女、九十九に張り付いていた百からの情報提供により、九十九と接触した者達の顔触れは沓谷衆に筒抜けになっていた。
家康の許諾を得て足軽部隊を編成、岡崎まで急行した赤羽陽斎は、この顔触れの中でも取り分け謀反に消極的と踏んだ山田八蔵を揺さぶり、味方に着ける事に成功。他のメンバーの名が芋づる式に明らかになる。
岡崎に潜む不穏分子の拘束は、信康率いる鎮圧部隊によって迅速に進められていった。
『足助落城』の知らせが岡崎に届いたのは翌日――四月十九日の昼の事だった。
これにて岡崎の不穏分子と、三河に潜伏していた歩き巫女は全滅です。
次回、事件にあらゆる意味で決着を着ける段階に入って行きます。




