#015 小田原城でお茶会を(前)
いよいよ北条家の「お茶会」をお届けします。
元亀元年(西暦1570年)六月 相模国 小田原城
「あら、もう来てたのね…結。」
沓谷衆からの報告書を五郎殿がいる大平城に転送した翌日。
小田原城本丸御殿の広間でお茶会の開会を待っていると、廊下の方から気怠げな声が飛んできた。
「これは凛姉様、ご機嫌麗しゅう…。」
「わたしの機嫌が麗しゅうなるかどうかは、貴女の報告次第よ。分かっているでしょうね?」
ケバケバしい…もとい、明るい色彩の着物に身を包み、脅しをかけながら私より上位の席についたのは、腹違いの姉、凛。
氏康の三番目の娘で、数えで26歳。私より一個年上である。
武蔵国(埼玉県+東京都)岩付の国衆、太田氏に嫁いだものの、この太田氏、上杉謙信の関東出兵に際して北条から離反したり、北条が勢いを取り戻したと見てまた帰服したり、数年後に当主が討死したりと、中々に波乱万丈な来歴を誇っている。
当の凛姉様はと言えば、前当主との間に一人娘をもうけたものの、岩付太田氏の跡継ぎがいなくなってしまったため、岩付領が北条の直轄領になるのと同時に母娘で小田原城に戻る事になった。
「今更何を…結がそんな愚鈍だと思うなら、あのような『宿題』を任せていないでしょう。」
凛姉様に続いて入室したのは落ち着いた口調とマッチした地味な…もとい、落ち着いた色調の着物を身にまとった女性。
やっぱり腹違いの姉妹で、父上の二番目の娘、蘭。数えで29歳である。
下総国(千葉県北部)の佐倉領主、千葉家に輿入れしたものの、子供が産まれる前に夫が早死にしてしまい、家督相続にも絡めないまま実家に戻っている。
「まあ二人とも、いつも仲良しねえ…日和も良くて、何よりだわ。」
更にその後から入室した白髪交じりの女性が、シワだらけの顔に見る者全てを魅了するような微笑みを浮かべながら、的を射ているようで微妙にズレているような事を言う。
彼女こそ北条氏康の正妻で私の実母、「本城御前様」。数えで53歳。
以上、私を加えて四名が、今日のお茶会の参加者である。
上座に本城御前様、左右に蘭姉様と凛姉様、母上の向こう正面に私という並びで座る。
「ではお茶会の前に…懸案を片付けてしまいましょうか。」
母上の言葉で室内の空気が僅かに引き締まり、お茶会というより企業の会議室と言って差し支えない雰囲気になった。
脇に置いてあった文箱から書類を取り出し、背後に控えていた侍女に合図をして三人に配ってもらう。この書類は凛姉様に課された「宿題」への回答であり…ある意味、今後の早川郷におけるスローライフの質を左右しかねないシロモノだった。
「ふうん、成程…南廻りの航路を諦めて、越後(えちご=新潟県)の商人が使う北国廻りの航路に切り替えた訳ね。国境から越後の港までと、敦賀国(つるがのくに=福井県西部)までは関銭(通行税)を気にする必要も無いし…これなら漆器の採算も取れる、か。外郎屋を通じて粗方は把握していたけれど…。」
愛用の長~い煙管を左手で弄びつつ、右手に持った書類に一通り目を通した凛姉様が独り言ちると、後ろに待機させていた侍女に「机、文箱、灰皿。」と短く言った。呼ばれた侍女は素早く対応し、あっという間に凛姉様の横には豪華な装飾が施された灰皿が、前には筆記用具一式が乗った文机が用意された。
凛姉様は煙管と書類を一旦置くと、自分の文箱から取り出した紙に筆を走らせ、押印した上で、「早川殿に渡して」とさっきと同じ侍女に命じた。
「上出来よ、結。こんなに早く立て直せるとは思わなかった…約定通り、借銭は帳消し。立て直しをお願いしていた商会の株札と引き換えにね…今後も頼りにさせてもらうわ、いいわよね?」
「勿論にございます。お姉様のご厚情、心よりお礼申し上げます。」
半分はゴマすり、もう半分は本音でお礼を言うと、凛姉様の侍女が運んできた起請文の文面を隅から隅まで確認する。
(金額は…変わってない。付け加えられた但し書きも…無い。で、凛姉様の直筆で…『右の借銭全額の返済を認める』、花押と朱印付き。これなら後で難癖をつけられる心配も無い、か。)
「そんなに見つめてると、起請文に穴が開くわよ?…慎重なのは良い事だわ、このご時世、どこに謀が潜んでいるか分かったものじゃない。」
「凛、またそんな憎まれ口を…。」
ひと仕事終わったとばかりに煙管の先端に煙草の葉を詰め、火種であぶって着火する凛姉様に、蘭姉様はたしなめるように言うが、私は不愉快に思う事は無かった。
この「お茶会」――実質的に、小田原を中心とした北条領内の経済政策を決定する会合において、北条家はおろか東日本でも指折りの資産家である凛姉様の発言には、色々な意味で重みがあったからである。
次回、お茶会と株札の解説回に入ります。




