#147 岡崎の三(悪)人(後)
『三悪人』最後の一人は…あの人です。
昼下がり。岡崎の街中にある築山屋敷を、物々しい行列を伴った来客が訪れていた。
徳川家康とその正妻、築山殿の長男に当たる、松平三郎信康である。
「お変わりの無いようで、安心いたしました。母上の身に何かあっては一大事と、居ても立っても居られず…。」
屋敷の応接間にて。孝行息子そのものと言って差し支えない信康の言葉に、向かいの築山殿…関口瀬名は困ったような微笑みを浮かべる。
「お心遣いは嬉しく思います。されど、三郎殿…貴男は岡崎城の主。足助がいつ落ちるとも知れないこの折に、軽々に城下へ参られるのは如何なものかと…。」
「それは!…ッ、仰せの通り、なれど…母上こそ、当面の間城内に居を移された方が…。」
「心配は無用にございます。わたくしは既に絶えた家の娘、その上女盛りをとうに越した身…武田のお歴々が気に留める事も無いでしょう。城内に入って皆様のご厄介になるのも心苦しくございますし…それよりも三郎殿、五徳殿が心細い思いをなさる事の無いよう、傍にてお気遣いなさいませ。」
それから、信康と築山殿の問答は夕方まで続いた。
信康があの手この手で母親を岡崎城内に避難させようとするのに対して、築山殿は自分の重要性は高くない、それより妻を大切にしろ、と言うばかりで、息子の説得に応じる兆しをまるで見せようとはしなかった。
日没が近付きつつある事を悟った信康は、いかにも不承不承といった顔付きで席を立ち、部屋を後にする――直前に振り返った。
「母上…ご心配なく。甲州勢は拙者が全身全霊で防ぎますれば…岡崎には一兵たりとも踏み入れはさせませぬ。」
決意に燃える瞳でそう宣言した信康を、築山殿は黙して見送った。
「大奥様、三郎様はお帰りになりました。」
「そう…。」
夕陽を明かり代わりに、自室で文机に向かっていた築山殿は、侍女の報告に短く返答した。
「差し出口を申し上げますが…やはり城内にお移りになられては?大殿(家康)からも…。」
「貴女達にまで気を遣わせて御免なさい…けれども、わたくしは此処に留まるわ。時に…明日の接客の支度は進んでいるかしら。」
「はい。件の口寄せ巫女お二人と、唐人医の西慶様、以上三名様にございますね。」
「ええ、粗相の無いように…。」
築山殿はしばらく紙に筆を滑らせていたが、侍女がうんともすんとも言わない事に気付き、顔を向ける。
「何か?」
「あ、う、申し訳ございません…そのう、大奥様は顔色も良く、憂い事も少なくお見受けしますので…なにゆえお三方を度々召し出されるのかと…も、申し訳ございません、立ち入った事を…!」
床に打ち付ける勢いで頭を下げる侍女を責めるでもなく、築山殿は微笑む。
「この頃、今は亡き父の事を思い返す事が増えて…病は気からと言うでしょう?憂いが募ると身持ちも悪くなるのではないかと、念のために西慶様に診ていただいているの。」
「は…そのような深慮がおありとは…ご無礼、誠に失礼いたしました。」
二度三度、深々と頭を下げた侍女が離れたのを確認すると、築山殿は再び文机に向かった。
やがて書き上げたのは置文…所謂遺書だった。宛名には徳川家康の名前がある。
(これでいい、これで…徳川と武田の『どちらが』勝っても、あの子は助かる…。)
築山殿が武田の謀略に乗ったのは、何よりもまず徳川の血脈を――より正確に言えば血を分けた我が子を守るためだった。
既に武田の手先と交渉を重ね、大筋で話は着いている。
岡崎を武田に譲り渡す代わりに、信康は徳川の当主となり、武田の軍門に降る。
謀議に加担した面々はその手柄に応じて勝頼に取り立てられる。
そして、築山殿は勝頼に再嫁して甲府で暮らす事になる。
それが実質、信康の寝返りを防ぐための人質である事も、築山殿は承知していた。
(三河守様と五徳殿には取り分け迷惑な事でしょう…けれどお許しを。わたくしにはどうしても、ここから徳川が巻き返すようには思えないのです。)
築山殿は十分理解している。武田の岡崎城占拠、西三河全域の制圧が叶えば、家康がこれまで以上の苦境に追い込まれるであろう事も。突然武田の軍門に降る事になった信康が、信長の血を引く妻の扱いに苦慮するであろう事も。
それでも、世の不条理を前に一つ一つ、手放していったとして…どうしても手放したくない、と強く念じたのが、信康の命だった。
とは言え、武田の使者を名乗る巫女達を無条件に信用した訳ではない。最後の最後で約定を反故にされ、奪われるだけ奪われて何も残らない、という可能性もまだ残っている。
そうした事態に備えて、家康に宛てた遺書を認めておくと同時に、武田の策もいよいよ大詰めとなったこの段で使者を呼び出し、誠意の程を確かめる。
それが築山殿の決意だった。
「いっそ…口寄せが真ならば良いのに。父上にもう一度お目にかかる事が出来れば、どんなに…。」
自分自身の発言が聞くに堪えないと言わんばかりに、築山殿は頭を大きく左右に振り、家康宛ての置文を畳んで胸元にしまった。
三悪人の一人…子のために夫を売る女、関口瀬名。
足助城の落城は明日か、明後日か。
三悪人にとっての運命の一日が、刻一刻と近づいている。
当初、関口瀬名の内心についてここまで掘り下げる事になるとは思いませんでした。
読者の皆様に、「なるほど、そういうのもあるのか」と思っていただければ幸いです。




