#144 謀略のカウントダウン(後)
Mission updated!
武田勝頼の戦略を看破せよ!
「武田四郎が打つ最善の一手…即ち、徳川にとって最悪の一手…にござるか。成程。」
私の質問を繰り返した陽斎殿は、顎に手を添えて地図を凝視し、沈思黙考した。
「武田四郎は信玄公に劣らぬ軍才の持ち主なれど…『どう戦うか』ではなく、『どう勝つか』と軍略を練っておられるように思いまする。」
「同じ事では?」
陽斎殿は首を小さく横に振った。
「似て非なるものにござる。武士たる者、戦うからには勝ちを求めるは必定、なれど…優れた将兵を率い、地の利を得て、万策張り巡らせて尚…天の時を逸して一敗地に塗れる事は往々にしてございます。」
陽斎殿の言葉で反射的に蘇ったのは、十五年前、桶狭間の敗報を聞いた時の衝撃だった。
確かにあの時も、義元殿の勝ちは『ほぼ』決まっていた…にもかかわらず、信長のラッキーパンチ一発で全てがひっくり返ってしまった。
「馬上一騎程度の小身であれば、ただ一心不乱に槍を振るい、功を成すも落命するも天命にございましょう。されど『将の将』たる者は…勝ちを求めるのみならず、敗北にも備える心構えを持って然るべきかと。家中領民の生殺与奪を握っておられるからには。」
「武田四郎殿には、その心構えが欠けておられると?」
念を押すように聞くと、陽斎殿は脳を刺激するかのように、左手の人差し指で額をトントンと叩き始めた。
「四郎の勇名は遠国まで轟いてござる。信玄公存命の頃より数々の武功を挙げ…『無敗』、と。これを念頭にこれまでの采配を顧みるに…四郎は『勝つ』ための手立てを二通りは考えているのではないか、と愚考いたしまする。」
「二通り…まず一つは?」
逸る心を抑えて促すと、陽斎殿は御世論の駒を掴み取り、地図の上に並べていく。
「奥三河の長篠を囲んで三河守(家康)殿を後詰に引きずり出し…一戦に及ぶ。相次ぐ敗戦で三河守殿は家中の信用を損なってございますゆえ…否が応でも後詰に出るより他は無し。そこを蹴散らす、という策にございます。」
「東海道に残る掛川城を捨て置いて?」
「掛川城の周りは平らかなれば、囲むに大兵を要する上、後詰に備えるための地の利がございませぬ。長篠は山と川に囲まれた難所なれば、攻め手も総出で攻め掛からずとも良く、後詰に備える人数も十二分に揃えられまする。」
陽斎殿の口から『長篠』の名が出た事に、私は驚き、深く感心した。
成程、『長篠の戦い』が起こるのにはそれなりの理由があった訳だ…。
「まだ長篠が囲まれた、という知らせは入っていませんが…三河守様の後詰を引きずり出す適地であるならば、武田の本軍がそこに向かってもおかしくはありませんね。」
「は…武田四郎の軍勢は万を優に数えましょう。対して三河守殿が自在に動かせるのは七千といった所…これで長篠の甲州勢にうかうかと攻め掛かるは、砂を石垣に投げるが如き愚行にござる。」
「…弾正忠殿の助勢が参陣するまで、三河守殿が持ちこたえるより無いでしょうね。足助城の事は宗誾様にもお知らせしたので、弾正忠殿の耳に入れば良いのですが…それで、二つ目の策は?」
恐らく、信長の援軍は間に合うだろう、その筈だ。
どちらかと言うと自分に言い聞かせるように喉の奥で反芻しながら、私は陽斎殿に続きを促した。
「二つ目の策は…岡崎を陥れて西三河を切り取り、三方より吉田、浜松に攻め入るというものにござる。尾張との連絡を断たれれば、三河守殿は独力で甲州勢に立ち向かうより他無し。遠からず腹を召されるか、国を捨てるより道は無くなるかと。」
うーん、こちらも大胆な作戦だ。
徳川がかろうじて武田と渡り合っているのは、織田の援軍というカードが残っているから。ならば家康と信長を物理的に遮断して、援軍カードを切れない状態にしてしまえばいい…か。
「成程、そのための足掛かりとして、足助城を…されど、岡崎城には松平三郎(信康)殿もいらっしゃいますし、相応の備えがあると聞いています。いくら武田と言えど、そう易々とは――」
ん?
岡崎城に誰がいるって?
信康殿と、妻の五徳殿。
それから――信康殿の母で、徳川家の奥向きを統括する、関口瀬名殿、が、い…る…。
「陽斎殿、痛み入ります。勝手ながらもうひと働きお願いしたく。」
喉元まで出かかった絶叫をどうにか飲み下して、私は文机を引き寄せ、数枚の書状を急いで書き下した。
「こちら、貴殿の知略への礼金にございます。その上で…急ではございますが、この書状と小切手を持ち、吉田城へ。以降は三河守様の指図に従ってください。」
小切手に記された額面の大きさと、書状の宛先を見て概要を察したのか、陽斎殿は素早く腰を浮かせた。
「岡崎、それとも長篠に?」
「三河守様が私の意を汲んでくだされば、岡崎。岡崎に着いたら、江川孫太郎殿を頼ってください。…どうか、足助城が落ちる前に。」
「委細承知。直ちに出立いたしまする。」
挨拶もそこそこに、陽斎殿は部屋から足早に出ていった。私と、話の急展開についていけずにオロオロするお栗を残して。
「あ…あ…えと、御前様…おらに出来る事は…。」
「そうね…熱々の白湯を持って来てくれる?いつも通り、落ち着いて…ね。」
忠告虚しく、お栗はどたどたとコミカルな足音を響かせながら厨房に向かう。
私は地図の上で鈍く光を反射する黒い駒を見つめながら、百ちゃんの無事を祈っていた。
次回から舞台が岡崎に移ります。
作者なりの『大岡弥四郎事件』、新解釈とかは特にありませんが、「そうだったのかも…」と読者の皆様に思っていただければ幸いです。




