#142 相国寺の会見(後)
武家の女性が『戦利品』のように扱われる事は、戦国時代にしばしばあったようです。
有名どころだと、有力国衆を屈服させて妻を迎えた武田信虎、信州諏訪を攻略して諏訪御料人(勝頼の母)を迎えた信玄あたりでしょうか。
正妻早川殿を献上すれば、駿河一国に加えて更なる報奨を今川氏真に与える…信長の放言に、信忠は頭を抱えたくなった。
信長はしばしば人の意表を突く行動を取り、相手を試そうとする悪癖がある。
昨年(天正二年)正月の『珍奇な肴』もその一例だ。
と言っても、信忠も人伝に聞いただけなのだが…諸国の武士による年頭の挨拶が済み、他国衆が退出した後、信長の馬廻衆だけが残っている所に『それ』は出された。
かつて信長に弓を引き、あえなく落命した浅井朝倉の三君…浅井久政、長政父子と、朝倉義景の首級を薄濃(はくだみ=漆で塗り固めて金泥等で彩色する技法)にしたものを膳に置き、これを肴に酒宴をしたというのだ。
出席者は謡を歌うなど大いに喜んだというが…薄濃にした首級を肴にするなど前代未聞、聞いた事が無い。
場が盛り上がったから今年もやるのかと思えば――昨年は大将首と言える手柄が無かったからかも知れないが――そうした催しは無かったという。
(宗誾殿と早川殿は古今稀なる仲睦まじさと聞く。恐らく父上は、宗誾殿を怒らせるなり慌てさせるなりしたいのであろう。いずれにせよ、宗誾殿が首を縦に振る事はあるまい…。)
「弾正忠様の仰せとあらば是非も無し…吉日を選んで進上申し上げる。」
「…は?」
氏真の返答に信忠は絶句し、慌てて信長の横顔を窺った。
信長は――あの即断即決を絵に描いたような英傑は――目を見開き、口を真一文字に結んだまま…死んだように動かない。
「では約定通り、駿河一国に加えて…近江、伊勢、山城、敦賀の四か国。河内、摂津、和泉、丹波は切取次第という事で――」
「ま、ま、ま…待て!待たれよ、宗誾殿!い、い、一体…一体、何を仰せか⁉」
動揺のあまり、信長の許しを待たずして信忠は叫んだ。
氏真は心底不思議そうに首をかしげる。
「儂が奥と引き換えに望む褒美にござる。美濃尾張は弾正忠様の本領ゆえ…。」
「な、成程…否、否、否!戯けるのも程々にされよ。女子一人と天下を取り替えるなど…莫迦げておる!」
「決して、戯けてなどおりませぬ。」
信忠は反射的に首筋を撫でた。
冷たい太刀筋が、一息に首を刎ねたような…そんな錯覚にとらわれたからだ。
「我が妻は良妻賢母、奥向きの差配に憂い無く、表の振る舞いに抜かり無し。その勇、千の凡夫に勝り、智慧は無尽の泉の如し。孫子を諳んじて十重二十重の策略を巡らし、戦場に立てば即ち必勝。民心を得る事瞬きの如く、財貨を殖やす事息の如し…この上三つ鱗の旗の下に産まれたからには、北条政子殿の生まれ変わりに相違無し。これを妻とすれば即ち、天下人となったも同然にございます。一度や二度天下を失ったとて、何の障りがありましょうや。」
本当にそんな女性が存在するのだろうか?天下と同等の値打ちがある女性など…。
「では、なにゆえ其方は此処にある。」
信長の冷静な反論を聞いて、ようやく信忠は我に返った。
そうだ、早川殿を妻に迎えるだけで天下人になれると言うのなら、何故氏真は没落しているのだ。道理が通らない。
「偏に、儂が天命に背き、采配を誤ったがゆえにございます。時勢次第では天下人にも、武家の棟梁にも成り得たものを…奥をお譲りするからには、代わりに天下を頂戴したく存じます。ただ、もし弾正忠様が再び天下を望まれるとあらば…その折は弓矢にてお出迎え申し上げる。」
永遠とも思われる長い沈黙を挟んで、信長は「フッ」と鼻を鳴らした。
「そういきり立つな…戯れじゃ。早川殿を妻に迎えずとも、今や天下は我が手にある。後は朝廷の後ろ盾を得るのみよ。時に、其方は蹴鞠の名手と聞いておるが…?」
「ははっ、今川の当主として当然の嗜みにございますれば…。」
「後日、余の前で腕前を披露せよ。やんごとなき方々と友誼を深めるため、一刻も早く会得せねばならぬ。仔細は追って伝える…他に申したき儀はあるか?」
「いいえ、ございませぬ。」
「で、あるか…大儀であった。」
形式的に氏真を労うと、信長は立ち上がり、氏真の横をすり抜けるようにして退出していく。信忠は慌ててその背中を追った。
「…早川殿が北条政子殿の生まれ変わりとは、真にございましょうか?」
「どちらでも構わぬ。」
廊下の途中で信忠が問いかけると、信長は立ち止まり、信忠を肩越しに睨みつけた。
「氏真に天下を譲ったが最後、織田は四方より袋叩きに遭って露と消えるであろう。」
「は…宗誾殿が公方様の真似事をすると?されど、父上の武威を以てすれば…。」
「『あれ』には勝算も後先も無い。惚れた女子を取り返すために何でもする…そういう目であった。」
絶句して立ち尽くす信忠から視線を切った信長は、どこか遠くを見る目で呟く。
「信玄入道には礼を言わねばのう。『あれ』が国持、城持のままであれば骨であった…。」
言うだけ言って再び歩き出した信長を、信忠はすがりつくように追いかけた。
温かい血が流れる首筋を何度も何度も、無意識の内に撫でさすりながら。
拙作の氏真は、「信長も、苦労して制圧した天下と女一人を交換出来ないだろう」と読んでいる…というイメージで書いています。
本文中で詳述出来ず、申し訳ありません。
史実通り、この後も氏真と信長は何度か会いますが、二人の対決は取り敢えずこれで一件落着です。
なお、今度こそ連続投稿が一~二週間途絶えると思います。
来週月曜日の投稿が無ければ、またしばらくお待ちいただきたく存じます。




