#014 寿桂尼の遺産(後)
沓谷衆からお手紙着いた、主人公さんたら読まずに食べ――ない!
「ふんふん、ほうほう…相変わらず友野屋殿の評判は悪いのねえ。」
「左様にございますか。」
早川郷の屋敷、その自室で書状を読みながら漏らした感想に、百ちゃんが相槌を打った。
6月…と言っても現代日本とは暦の法則が異なるため、日照時間および体感気温は共に夏と言って差し支えないレベルに達している。
私は直射日光を避けて自室にこもりつつ、窓や障子を開け放って風通しを良くした状態で、書状――駿河国(静岡県中部)に潜伏中の沓谷衆から届けられた近況報告に目を通していた。
沓谷衆は今世における私の母方の祖母、寿桂様が創設した諜報機関である。
暗殺や破壊工作といった荒事は苦手、活動範囲も駿河国からギリ伊勢国(三重県)までと制限も多いが、安い報酬で働いてくれる上に忠誠心も高い、頼りになる存在だ。
「けれど…これが五郎殿の戦にどれ程役立つのかしら?」
一生懸命集めた情報を、武田の監視をかいくぐって定期的に届けてくれる沓谷衆の努力には感謝しかないのだが、それがどれだけ実際の戦況に役立っているのかと問われると厳しい所がある。
まず内容だ。
武田の侍が酒の席で口を滑らせたとか、駿河国に駐留する武田勢が武具兵糧を買い集めたとか、そういった情報は入って来るのだが…それが最終的に何を意味するのか、私には分からない。
次に情報の鮮度だ。
沓谷衆の報告はまず寿桂様から『司令長官』の座を引き継いだ私に送られてくるのだが、戦況がまるで分からない身としては、ほとんどそのまま五郎殿に転送するしかない。そうすると、駿府→小田原→大平城と遠回りをしている間に一週間近く時間が経過してしまい、情報が五郎殿に届いた頃には無価値になっている事も少なくないのだ。
「まあ、今に始まった事でもないか…。」
負け惜しみではない。フィクションに登場するスパイには程遠い私でも、数年間機密情報の取り扱いについて叩き込まれれば、ある程度の原理原則は嫌でも身に付くのだ。
「手に入った情報の六割は不明瞭、三割はハズレ、残り一割はアタリだが往々にして時間切れ…沓谷で勝手に取捨選択される方が問題か。いずれにしても、後は五郎殿に確かめてもらう他無いわね。」
内容を別紙に複写した報告書を畳み、印籠に入れてから継ぎ目を封蠟で接着し、百ちゃんに渡す。
「確かに承りました。時に、明日は小田原城にて茶会とお伺いしておりましたが…わたくしも同道した方がよろしいのでは?」
情報の鮮度という観点から見れば、元風魔忍者で森でも山でも容易く踏破出来る百ちゃんに一刻も早く大平城に向かってもらった方がいいに決まっている。
ただ、明日のお茶会はその名に反して中々にデリケートな会合であるため、いざという時に備えて百ちゃんがそばにいてくれた方が助かる、というのも事実ではあった。
「確かに、貴女がそばにいてくれた方が心強いけれど…そう悪い事にはならないと思うわ。母上もおいでになるし、お姉様の宿題は片付けたし…貴女は大平城へ。そしていつも通り…無事に帰って来て。」
「無論にございます。忍びの本分は潔く散る事にあらず、見苦しくとも生き延びる事にございますれば。」
百ちゃんは力強く頷くと、音もなく立ち上がり、部屋を出ていった。
「本当に…よく働いてくれるわ、百ちゃんも、沓谷衆も。」
(それに、友野宗善殿も。)
私は報告書の中で沓谷衆がこき下ろしていた、かつての盟友――少なくとも私はそう思っていた、掛川城で友野屋が武田に寝返ったという報告を聞くまでは――の名前を、小さな声で呟いた。
主にお互いの資産形成のためとはいえ、今川領内の経済振興に尽力してくれた人物があっさり主家を見限ったと聞いた時は気が遠くなったが…その後の宗善殿の行動を精査するうちに別の意図が見え隠れするようになった。
具体的には、武田の味方をしながらも出来る範囲で今川に便宜を図ってくれているのではないか、と。
「けれど、父上の見立てが正しければ…みんなの努力は、全部む――」
その先を飲み込んで、報告書の写しを専用の文箱にしまう。
どっちでもいい。
どっちでも同じ事だ。
立場的にも能力的にも軍勢を指揮する事が出来ない私は、北条の、五郎殿の戦を応援する事しか出来ない。
それが失敗したって、いいじゃないか。
どうせ豊臣秀吉の北条征伐までは小田原城は安泰、それまでに身の振り方を決めておけばいい。
もう戦国乱世の荒波に揉まれて、右往左往するのは真っ平御免だ――。
初夏の日差しとは無縁の薄暗い部屋の中で、私は一人、自分に言い聞かせていた。
正確な情報の割合については適当に決めたものですが、実際の諜報活動が一般にイメージされているものよりも複雑で時間がかかるのは間違いないようです。
次回、ビターでアダルトな大人のお茶会が幕を開ける――‼(予定)




