#139 山科内蔵頭の賓客(後)
信長の、傾向と対策。
「織田弾正忠(信長)殿は、何と?」
朝餉を平らげ、酔い覚ましを服薬した後、信長から届いた手紙に目を通していた氏真に、山科言継は問いかけた。
「明日(三月十六日)、相国寺まで参られたし…それしか書かれておりませぬ。」
「か~っ、弾正忠殿らしいと言うか…あの御仁の悪い癖や。宗誾殿がどう出るか、見極めようっちゅう魂胆やろ。せやけど…あんさんの策がようやっと実を結んだんやなあ。」
「恐らくは。されど…ここからが肝要にございますれば。」
氏真は緩みかけた頬を引き締めて、短い手紙を畳んだ。
信長の上洛と相国寺への宿泊が、昨日今日の話ではない事は氏真も把握している。それでも一度として自分から催促の手紙を出さなかったのは、矜持と博打だった。
日の本有数の沃野、濃尾平野を基盤に、京や堺といった商業都市をも掌握、時には十万に上る大軍を動員出来る信長に対して、氏真は確固たる領地も無く、郎党と呼べる人材も数えるほどしかいない。下手に虚勢を張って信長の機嫌を損ねれば、二度と無い好機を逃すのは氏真の方だ。
『しかし』そして『だからこそ』、氏真は…待った。
物乞いのように自分から手を伸ばすのではなく。信長の方から招かれるのを待っていたのだ。
全ては今川を、どこにでも転がっている敗者として扱わせないために。
自分に拾う価値があるのだと、信長自身に認めさせるために。
「手土産は、名物『百端帆』やったな?」
「は…弾正忠殿はこれにずいぶんとご執心の様子…。」
氏真は部屋の片隅に積まれた木箱の内、黒々とした墨で『百端帆』と記された箱に目をやった。木箱の小山の半分は浜松から移送して来たものであり、もう半分は気前の良さをアピールするために京の豪商から即金で買い付けたものだ。
即金…とは言ったものの、実際の請求先は自宅…つまり妻宛てだったのだが。
「『それ』、弾正忠殿の召し上げを見越して、伊勢大湊の角屋はんから取り返した逸品でっしゃろ?いやはや、弾正忠殿は名物の蒐集にも余念が無いよってなあ…。」
「ほっほっほ…いや間一髪にござった。一昨年(天正元年)浜松に居を移した折、角屋殿に託した茶道具の事に思い至りましてな。弾正忠殿は上洛してよりこの方、折に触れて名物を召し上げ、代わりに米銭を下げ渡しておいでとか…。大邦の主となれば、次は名品を集めて無聊を慰めたくなるもの。さればこそ、易々とは渡せませぬなぁ…。」
氏真の語尾に執着が滲むのを感じて、言継は密かに肩をすくめた。
先祖の日記を紐解けば、雅事――現代的に言えば文化、芸術――が政とおよそ無関係でいられなかった史実がよく分かる。
古より時の権力者達は珍しいもの、貴重なものを重宝し、その多くを人の目が触れない場所に厳重に仕舞い込んだ。
そのほとんどは食えず、武器にもならず、ものによっては米銭と引き換える事すら出来ない。それでもなお、一定の地位を得た『彼ら』は宝物の蒐集をやめられなかった。
およそ百年前、洛中で配下の大名同士が合戦に及ぶという異常事態を目の当たりにした足利義政(室町幕府八代将軍)ですら、銀閣寺の造営だの、枯山水のための石集めだのに血道を上げている。
(人の性か、血は争えへんちゅう事か…思えば義政公の奥方(日野富子)も蓄財に長けておらしゃった…二の舞を踏む羽目にならなええんやけど…。)
言継の懸念を知ってか知らずか、氏真の視線は宝物の小山に留まって離れなかった。
なぜ当時の武将達は茶道具を集めまくったのか。
信長でさえ一度入手した茶道具を易々とは下賜せず、秘蔵していたようです。
現代でも、名画を売買する裏市場があったり、オークションで匿名の個人が落札したり、という現象を見ると、やっぱりある程度の地位を得ると、『すごいもの』で身の回りを飾りたくなるのかな…と推察します。




