#136 蝮が産んだ美濃の蝶(中)
ねえどんな気持ち?
ねえねえどんな気持ち??
客間に踏み入って来たのは汚れ仕事を兼任する鷺山殿の供回り…ではなく、我が家の警固を担当する侍や侍女達だった。侍は腰に差した刀の柄に手をかけ、侍女達はたすき掛けに薙刀と、完全に臨戦態勢に入っている。
「こ…これは一体!供回りはどこに…!」
指笛を鳴らせば供回りが突入して、私を拘束する…という手筈だったのだろう。
鷺山殿の付き人は当てが外れて狼狽するばかり…少し同情したくなるが、打ち手を一つ誤れば破滅するのはこっちだ。最後まで気を抜かずに行こう。
「当家もそれなりに場数を踏んで参りましたので…こういった謀には些か心得がございます。供回りの皆様におかれましては、別室にてくつろいでいただいておりますゆえ、ご安心を。」
この業界には幾つかの鉄則がある事を、私は寿桂様――沓谷衆の創設者に叩き込まれた。
例えば、情報を得るには人材、時間、資金のいずれか、或いは全てを必要とする事。
得られた情報を結び付ける時は過度に楽観的になったり、悲観的になったりしてはならない事。
他者を探る事に注力するのみならず、自身が探られている可能性を常に意識する事、等々…。
今回重要だったのは、私と鷺山殿のどちらが相手の事をより深く知っているか。そして鷺山殿の『武器』は何か…その二点だった。そこを押さえておけば、鷺山殿がどんな無茶振りをしてこようと大抵の事には対処出来る。
幸運にも、と言うべきか。織田家の非公式な諜報活動を差配しているのは鷺山殿である…という事実は、裏社会では公然の秘密だった。鷺山殿が直接指図出来る手駒のほぼ全員が――人材確保に制約があったのだろう――自宅の使用人と兼任である点も、動向の把握にプラスに働いた。
あとは浜松に潜入した鷺山殿の密偵を誘導して、我が家の警備体制がザルであるかのように錯覚させて帰す。そして今日、鷺山殿に同行したメンバーから荒事専門の人間だけをひとまとめに軟禁すれば、『やはり暴力は全てを解決する』という相手の切り札を封印出来るという訳だ。
どうして向こうの合図だった筈の指笛でこちらのメンバーが突入したのかは不明だが…百ちゃん不在でも『その道』に通じた人材は他にもいる。赤羽陽斎殿あたりが聞き出したか、鷺山殿の策に見当をつけて待機していたか、どっちかだろう。
遺恨を残したくないので、可能な限り刃傷沙汰は避けるよう言い含めてあるが…まあ、その辺は後で確かめるとしよう。
まずは、一転して窮地に追い込まれながら、短刀を抜き放って鷺山殿の前に立ち、抵抗する気満々の付き人をどう落ち着かせるか、だ。
「く…御前様、申し開きのしようも無い…わたくしが血路を開きますゆえ、どうにか尾張までお戻りを…。」
「お待ちなさい。…早川殿。わたくしが浅はかにございました。米の売買については向後一切咎めませぬ。内密にお話ししたい儀がございますゆえ…人払いをお願いしたく。散花、貴女もよ。」
二転三転する状況の中、沈黙を貫いていた鷺山殿がようやくもっともな反応をしてくれた。
情報戦で自分が負けた現実を受け入れ、言い掛かり同然だった先程の要求は取り下げる。その上で、別に話したい事があるので…『お互いに』武装解除した状態で話そう、という訳だ。
…最初からそうして欲しかったなぁ。まあ時代が時代だからしょうがないんだけれども。
私だって、鷺山殿の暴力に暴力で対抗しようとしてたんだから偉そうな事は言えないし。
ともあれ、鷺山殿の要請を受け入れて、臨戦態勢にあった皆を下がらせる。
鷺山殿の付き人…散花さんも不承不承納刀し、未練がましく振り返りながら部屋を出て行った。
「重ねて非礼をお詫び申し上げます。あの者はわたくしが取り分け目をかけておりまして…平にご容赦を。」
「いいえ、散花殿…でしたか。久方振りにあの目を見ました。主のために一命を擲つ事も辞さない、忠義者の目を…。」
「そう、ですか…早川殿も、人に恵まれておられるのですね。」
鷺山殿が微笑んだ――ように見えたが、それも一瞬の事だった。
「単刀直入に申し上げます。今川宗誾殿と離縁し…我が夫の妻となる積もりはございませんか?」
んー…成程成程。
いや、これは流石に予想外だわ。
素晴らしい提案をしよう…お前も(信長の)女にならないか?




