#135 蝮が産んだ美濃の蝶(前)
今回、いわゆる濃姫が登場します。
固有名詞をどうしようか迷ったのですが、当時使われていた可能性が最も高い「鷺山殿」を使う事にしました。
客間に着くと、客人――織田信長の正妻、世に言う『濃姫』が、侍女を一人従えて座っていた…上座に。
あえて上下関係を論ずるなら、ここは今川家の屋敷で、『もてなす』のは私達だ。それに北条…は遡るとちょっと怪しい所があるが、少なくとも今川家は織田より歴史も格もある名門、つまりこちらが上座でも不自然ではない。
他方、今の我が家の立場は京から追放された足利将軍家と同様に脆弱だ。尾張、美濃から近江、大和、山城、その他攻略中の諸国を計算に入れれば、国力、経済力、政治力、軍事力…あらゆる分野で織田家には到底敵わない。
過去の栄光か、現在の威光か…まあどの道織田家からのお客様を上座に迎える結果に変わりはなかったかも知れないが、せめて事前に相談は欲しかった。
「どうなさいました、相模御料人様…?よもや、御前様に跪きたくないとでも?」
濃姫の付き人が嫌味たらしく言って来たので、聞こえないフリをしながら下座に座る。
「これは織田の御前様、遠路はるばるよくぞお越しくださいました。」
定型文的な挨拶の後、間髪入れずに顔を上げ、濃姫の顔色を窺う。
年齢は…事前情報通りなら40代前半。目は切れ長、鼻もすっと細くて、現代日本なら「クールビューティ」とでも言われそうだ。
ただ、唇が必要以上に固く結ばれており、肌の色が病的に白い。恐らく…加齢によるシワ、たるみ。それに「仕事」で溜まった心労から出る目の下のクマを隠すために白粉を使っているのだろう。
私も遠くない将来、同じ悩みに直面する事になるのかと思うと少しソワソワする…。
「有難きお言葉…わたくしの事は鷺山とお呼びくださいませ。」
見た目通りのクールな声で出された要請に、私は密かに安堵のため息を吐いた。
濃姫…いや、鷺山殿がフレンドリーな姿勢を見せてくれたから、ではない。沓谷衆の面々が事前に調べてくれた個人情報と一致する点が多数確認されたからだ。
「ではお言葉に甘えて…恐れながら鷺山様、本日は一体何用で?三河守様よりお達しもありませなんだゆえ、もてなしの支度もございませんが…。」
家康を通じて事前通告しろよ、と不満を滲ませるも、鷺山殿の反応は冷ややかだった。
「これはしたり。掛川を落ち延びた後も、行く先々で遊蕩に耽っておいでと風の噂に聞きましたもので…いつ訪れても障りは無いものと早合点しておりました。」
没落して悠々自適なんだから、いつ訪問しても構わないと思ったって?かあ~、やっぱ伝説の女は違うわ~。
「まあ、それは良いでしょう。本日は早川殿から、銭を返していただくために参りました…織田から掠め盗った銭を。」
「はて…心当たりがございませんが。」
「昨年秋(7月~9月)、信長が河内長島を攻め滅ぼした折…大軍の長期滞陣を見越して兵糧米を伊勢、尾張の商人に売り付けたでしょう。これは時勢の推移を見越して米を売買し、織田の銭を掠め盗ったも同然。後ろめたく思うのであれば直ちにお返しを。」
ふ~ん、平たく言えばインサイダー取引の罰金を払え、みたいな話か。公正取引委員会でもあるまいし、大層な言い掛かりだこと。
「それはそれは…お断りいたします。」
返す刀で拒絶すると、鷺山殿は無表情のままだったが、付き人は血相を変えて身を乗り出した。
「御前様のお慈悲を無下になさると仰せで?黙って銭を返しさえすれば、この場限りで事が収まるのですよ?」
早く返さないと信長にチクっちゃうぞ、てか?
不良グループの新入りみたいな事言ってると格が下がるぞ。
「私は馴染みの商人を通じて米の売買をしたのみ。織田のお歴々がいかな采配を振るうかなど、知る由もございませんでした。それでもお疑いであれば…まずご家中を探ってはいかがでしょう。」
鷺山殿の付き人は矛を収めるどころか怒りのレベルをもう一段階上げたようだ。
だが、私は噓を吐いてはいない。宗誾殿の戦況予測を元に、米価が下がったタイミングで複数の商人から米を買い上げ――在庫処分が出来たと感謝する人もいた――信長軍の長期滞陣で兵糧米の需要が高まったタイミングで元々の持ち主に売り渡しただけだ。
これでインサイダー取引に問うのは、現代の公正取引委員会でも無理だろう。宗誾殿の読みが外れてたら損失が発生する可能性さえあった訳だし。
「あくまでも空とぼけるお積もりであれば…こちらにも考えがございます。」
「考え、とは?」
わざとらしく小首をかしげると、付き人は勝ち誇った顔付きで右手の親指と中指をくわえ…指笛を鳴らした。直後、周りの障子が勢い良く開き、何人もの男女が踏み入って来る。
「こういうこ…な、何⁉」
盤外戦術は私の勝ち、かな?
「魔法カード発動!『伏兵』!」
「罠カード発動!『孔明の罠』!」




