#133 亭主元気で留守がいいワケねえだろ!(前)
だ、駄目だ…まだストックが少ない…こらえるんだ…し…しかし…
落ちつくんだ…「素数」を数えて落ちつくんだ…2…3…5…7…11…
ヒャアがまんできねぇ0だ!
天正三年(西暦1575年)二月 遠江国 浜松
「ははうえ、ちちうえはいつお戻りになられるのですか?」
自宅の一室にて。
私と宗誾殿の間に産まれた二人目の子にして今川家の次期当主、竜王丸が幼さの残る声で私に問いかけたのは、宗誾殿から届いた手紙の一部を読み聞かせた直後の事だった。
「竜王丸殿、我儘を仰ってはなりません。父上はお家のために…。」
竜王丸と並んで聞いていた紬が窘めるも、それは逆効果だった。
「されどあねうえ、ちちうえは吉田城で御屋形様(家康)とお酒を飲んだり、岡崎城で若様(信康)とお酒を飲んだり…京でもお公家様といっしょに遊び歩いておられるのでしょう?ほんとうにお家のためなのですか?」
弟の鋭い指摘に、紬は的確な返しが思い付かず、苦慮しているようだ。
ある意味では竜王丸の言う事が正しい。
物語に登場する武士や付き合いのある三河武士(小栗又一殿や井伊虎松殿等々)は、日々武芸の鍛錬に励み、合戦で大活躍して立身出世しようと頑張っているのに、ウチの旦那様は家族を残して東海道を飲み歩き。しかも費用は全額私が支払っているという有様だ。
私だって事情を知らなければ東海道を追走して、宗誾殿をひっ捕まえて殴っていただろう。グーで。
「きのうも近所の子供に言われたのです。『お主の父親は血筋を頼りに、奥方の稼ぎで飲み明かす莫迦大将じゃ』と…すぐにその者達の親が謝りに来たので、面目は保たれましたが…ははうえ、ちちうえはほんとうに莫迦大将なのですか?」
悲しそうに質問する竜王丸を見ながら、私は密かに感慨に浸っていた。
あの小さかった竜王丸が…泣いたり笑ったりウンチしたりする事しか出来なかった竜王丸が…無条件に尊敬していた父親像と、周囲の評価とのギャップに苦しんでいる。
この歳で、今川家次期当主としての自覚が芽生えているのだ。
「竜王丸殿はご立派にございます。齢六つにして当家の行く末を憂いておいでとは…。」
疑念を真っ向から否定したい気持ちをぐっとこらえ、まずは竜王丸の姿勢を褒める。
しかし宗誾殿がアル中のヒモだと思われるのも困るので…うん、このストーリーで行くか。
「竜王丸殿。昨日無礼を働いた子供達の親が、どうしてすぐさま謝りに訪れたのか…お分かりになりますか?」
「…ははうえが恐ろしかったがゆえ、にございますか?」
本当に容赦が無いな、この頃の子供は。
「いいえ、貴方の父君を畏れ敬うがゆえ、にございます。宗誾様は公方様に連なる名門、今川の血を引く者。若き日よりその出自に甘える事なく、鍛錬を重ね、書に親しんで参られました。刀を取れば一騎当千、采配を振るえば機略縦横、筆を取れば詩歌泉の如く…文武のいずれにても手本にすべきお方と、道理を知る武士は皆宗誾様を敬っておいでです。」
「…ではなにゆえ、ちちうえは徳川の御屋形様に頭を下げるのですか。」
竜王丸はいかにも納得がいかない様子だ。
まあ、そんなに凄い人が他人の下にいるって普通に考えたらおかしいわな。
「天運が宗誾様を見放したがゆえ…されど宗誾様は潔く死するを良しとせず、一時の恥を忍んででも生き長らえる道を選ばれたのです。全ては父祖累代の系譜を絶やさぬため、貴方達に今川の行く末を託すため…。」
余韻が残るように調整しながら語り終えると、紬と竜王丸は神妙な面持ちで私の言葉を噛み締めているようだった。
まあ今川の没落に宗誾殿の責任が全く無いかと言われるとそんな事は無いのだが、少なくとも大失格とまでは言えないだろう。
肝心なのは、貴方達のお父さんはダサくなんてない、という事だ。
「二人共、他言無用ですよ?…宗誾様は三河守様の密命を受け、天子様(天皇)から勅を賜るために上洛なさったのです。」
「「えっ。」」
驚愕のあまり目を見開いて固まる二人に、私は心の中で謝った。
我が子とは言え子供に遠大な作戦をばらすのはリスクが高すぎる。そこで、宗誾殿の行動には重大な意図があるのだ…という部分を若干大袈裟にして、口止めをする事で信憑性を高めよう、という算段だ。
「織田弾正忠(信長)殿も、三河守様も、天子様にお目通りするには家格が足りない。酒宴も、物見遊山も、敵の目を欺く謀…宗誾様は三河守様の信を得て京に向かわれたのです。」
自信満々に言い切ると、二人は興奮した面持ちで何度も頷いてくれた。
私は子供達が納得してくれた事にホッとするやら、口から出まかせで誤魔化してしまった事に良心が痛むやらで、ちょっと忙しかった。
官位に詳しい方ならご存知の事と思いますが、幾ら今川氏真の血筋が良いからといってホイホイ天皇と謁見は出来ません。
南北朝時代の反省からか、室町時代頃から天皇が直接政治的意見を表明する事も避けられていたようですし…。




