#132 迫る分水嶺(後)
氏真「そうだ、京都行こう。」
結「Why now? (なして今?)」
「弾正忠殿に出仕するため、上洛を…?その心をお伺いしても?」
どうして京都?とか、何でこのタイミングで?とか、聞きたい事は色々あったが、取りあえずそう聞き返す。
経験上、大事な決断に際して宗誾殿が説明をケチった事は無い。今回も例外ではなかった。
「実はのう、先だって弾正忠殿が高天神城の後詰に参られた折…御屋形様(徳川家康)から身を隠すよう勧められてのう。」
「…弾正忠殿が宗誾様を厭うておられると?」
「知っての通り、儂は御屋形様の面前で頭を丸めたが…弾正忠殿と直に顔を合わせた訳ではない。義元を討った仇である弾正忠殿を、儂が未だに恨んでおるのではないか、とな…。」
私は黙ってお茶をすすった。
世の中原理原則だけで渡って行けたら苦労はしない。
武士の誉を優先していたら私達一家は掛川で死んでいただろうし、そもそも家康は宗誾殿の家臣だったとか言ってたらここには来られなかった。
宗誾殿はその度に恥を忍び、不義理を承知で、『不名誉な選択』を繰り返して来た。そして今、信長にさえ頭を下げようとしている。義元殿の死に報いるという、かつての宣誓に背いてまで。
だが、信長は信長で、宗誾殿を警戒しているという事か。
「されど、望みが無い訳ではない。先日弾正忠殿に『千鳥香炉』と『宗祇香炉』を進上したのじゃが…『宗祇香炉』は返されてのう。」
「…何か気に染まぬ事でも?」
「否。『これ程の名物を一時に二つも頂戴するは恐れ多い。近くお目にかかる事があれば、別の茶道具を拝見したい』と…文にて申しておいでじゃ。」
いつの間にか信長と(具体的な場所や日時は未定だが)面会する予定を取り付けていた宗誾殿の手腕に、私は舌を巻いた。
「されど、ただ茶道具一つを手土産に会いに行ったとて…丁重に扱うべき客とは見なされぬであろう。弾正忠殿は多忙ゆえ、如何程待たされるやら見当も付かぬ。それゆえ…弾正忠殿の方からお呼び立ていただけるよう仕掛けを作る。」
どうしよう、旦那様の生臭っぷりにゾクゾクが止まらない…!
「五年前の上洛以来、弾正忠殿が心を砕いて参られた甲斐あって…洛中はよく治まり、荒れ果てていた内裏の修築も成ったとか。そこに儂が乗り込み、殿上人と親しく交わる様を見れば…弾正忠殿も心穏やかではおられまい。」
「御父君(義元)の縁や、権大納言様の伝手を辿って…でございますね。」
今川家は戦乱で京を追われた公家を保護し、朝廷とのパイプを維持して来た。
寿桂様――私と宗誾殿にとって(一応)共通の祖母――の縁戚に当たる、正二位権大納言、山科言継卿も親しく文通している一人だ。
まさか宗誾殿が、徳川のご厄介になっている身から家康も信長も飛び越えて朝廷の要職に就けるとは流石に思えないが、没落しきって路傍の石も同然と思っていた存在が俄かに洛中の話題をさらえば、信長も放ってはおけないだろう。
「ただ一つ…この策には大きな穴がある。儂には到底埋められぬ穴じゃ。」
突然神妙な面持ちになった宗誾殿は、茶道具を置き、足を正座に組み替えると、私に向かって深々と頭を下げた。
「お主に頼みたい儀は三つ。まず、儂が供回りを連れて上洛しておる間、証人として浜松に残ってもらいたい。次に、儂が戻るまでの間、徳川を陥れんとする謀を防いでもらいたい。最後に…上洛した後殿上人のお歴々と連日遊興に耽るとなれば、その費用が如何程になるか、見当も付かぬ。それを用立ててもらいたい。」
…総合すると、だ。
宗誾殿が上洛している間、私は浜松でお留守番しながら武田との情報戦に神経をすり減らし。宗誾殿がお公家様達と連日連夜遊ぶためのお金を工面してせっせと送金しなければならない、と。
そんな身勝手な話――
「かしこまりました。全身全霊をもって、務めに励みまする。」
――受けるに決まっている。
「真に、良いのか?」
何を今更。
「私が蓄財に励むのは、幽世まで財貨を持って行くためではございません。宗誾様の宿願を叶えるため、一族郎党の生計を守るためにございます。殿上人のお歴々をもてなす事が宗誾様の宿願に繋がると仰せならば、喜んで銭を差し出しましょう。」
「結…。」
「ただし!…いかに無益、無闇な散財でも、目録はお忘れ無きよう。後の清算に差し支えますので。」
冗談めかして言うと、宗誾殿は目を潤ませながら、私を強く抱きしめた。
「…必ずや弾正忠を引きずり出す。武田との戦に織田を巻き込み、甲州勢に痛撃を浴びせてみせる。お主の献身を無駄にしてなるものか…!」
「お気持ち、有難く。どうか思う存分、天下万民に知らしめてくださいませ。駿州今川ここにあり、と。」
私も宗誾殿を抱きしめ返す。
冬の夕暮れが部屋を照らす中、私達はしばらく無言で抱き合っていた。
次回から激動の天正三年(西暦1575年)に入っていく予定…ですが、連続投稿の準備等により、再開が1~2週間ほど先になる可能性があります。
読者の皆様に満足いただけるクオリティを維持出来るよう、注力して参ります。




