#131 迫る分水嶺(前)
夫婦トーーーーク‼
「見られておったか、いやはや気恥ずかしいのう。」
本多忠勝殿、小栗忠政殿、井伊虎松殿が帰った後、お茶を点てながら宗誾殿が言った。
さっきまでとは逆で、私は座ってお茶を待つだけである。
「平八郎殿、又一殿、虎松殿の様子を見ている内に、不意に在りし日の駿府を思い出してのう。義元に見守られながら、次郎三郎(徳川家康)や助五郎(北条氏規)と切磋琢磨した日々を…いや、過ぎ去った事を懐かしんでおる暇は無い。これからの事を考えねばな。」
そう言って差し出したお茶碗から、ホカホカのお茶をありがたく頂戴する。
あ~あったまる~。
「有難う存じます。宗誾様に手ずから点てていただけるとは…。」
「お主が満ち足りるまで何度でも点てようぞ。さて、それで…諸国の情勢は如何に?」
室内の雰囲気が変わった事をひしひしと感じながら、お茶をじっくり味わって飲み込み、ほうっと息を吐く。
ここからは『仕事』の時間だ。
「まず駿河国…友野屋宗善殿の文によれば、あちこちの村で武田の将が兵糧米を買い上げたために、市場にはほとんど米が出回っていないとの事でございます。」
これだけでも危険な兆候だ。
戦況の推移に合わせて兵糧米を買い付けるのが常道なのに、市場に出回る筈だった余剰米まで買い占めているとなれば、勝頼はいつでも出陣出来る準備を進めているという事になる。
「三河遠江は思わしくなく…諸将がなかなか三河守殿の威光に靡こうとなさいません。九月にお膝元(浜松)まで攻め込まれたとあれば、是非も無い事とは存じますが。」
あれはまあまあ焦った。
高天神城を落とした勝頼が駿河との国境に近い諏訪原城の修築を開始した、という情報から、まず掛川城を落として街道上の障害を取り除いた上で浜松城に迫る――という作戦だという観測が徳川家中では主流だった。私も例外ではない。
ところが織田軍の河内長島包囲戦が続く最中、勝頼は軍の一部を率いて掛川城を迂回、浜松を奇襲して城下の一部を焼き払ったのだ。
お陰で私達は取る物も取りあえず、一家揃って浜松城に一時避難する羽目になった。幸い我が家は焼失を免れたが、いい迷惑である。
「河内長島は…もはや弾正忠殿の障りとはならないでしょう。小さな市が立ち、織田の代官が目を光らせているとか。」
「ふむ…間者の動向は?」
「こちらの…沓谷衆の働きは恙なく。三河遠江に忍び入っている他国の間者は大方が武田、次いで織田、僅かに北条の手の者といった塩梅になっております。」
交戦中の武田の忍びが一番多いのは当然として、同盟関係にある織田が忍者を送り込んでいるのは徳川の離反に備えての事だろう。長島の脅威が消滅したからと言って、近畿方面の敵は今なお健在、ここで徳川を切り捨てるメリットはまず存在しない。
北条の忍び…風魔忍者の潜入は十中八九武田へのアピールだ。その証拠に、腕が未熟な少年少女やら、とっくに顔が割れている中高年やらを何度も送り込んで来ている。潜入即検挙されて送り返される事を前提にしているとしか思えない。
別ルートで本命を送り込んでいる可能性も無いでは無いが、候補生の実地研修か、潰しが効かないベテランの再利用みたいに使っているのだろう。
「一つ、気にかかる事が。武田の間者は遠江ではなく、三河…それも西三河に重きを置いている由。岡崎での寄合(集会)に探りを入れようとして、返り討ちに遭った者もいるとか…。」
一時的とは言えお膝元まで攻め込まれた家康は、さり気なく東三河の吉田城で過ごす時間を増やして、浜松城に次ぐ第二の本拠地のように扱っている。いずれにせよ、武田が調略の重点を置くなら遠江か東三河の筈だが…。
「成程…坂東は?」
「北条と上杉の戦は一進一退…双方決め手に欠けている模様にございます。」
佐竹、里見といった中小勢力と交戦しながら『あの』上杉謙信と互角に戦っている時点で、氏政兄さんは十分に『名将』と呼ばれる資格があると思う。
謙信の軍才に翳りが見えているというのなら、話は別だが。
「ふむ…上杉が坂東に掛かり切りとなれば、武田四郎の妨げにはならぬか。思い切った手に出る日も遠くはなかろう…されど、いや、さればこそ…早々に済ませておかねばなるまい。」
茶筅でお茶をかき混ぜながら独り言ちた宗誾殿は、お代わりの一杯を差し出してから、居住まいを正して私に向き直った。
「結…年明け早々に、儂は上洛する。織田弾正忠殿に頭を下げるために、な。」
いよいよ、今川氏真の(数少ない)名場面が近づいて参ります。
じっくりと描写していく予定です。




