#013 寿桂尼の遺産(前)
更新をお待ちの皆様、お待たせいたしました。
個人的事情により、執筆が遅れておりました。
エイプリルフール企画も何もございませんが、五日間お楽しみいただければ幸いです。
元亀元年(西暦1570年)六月 駿河国 沓谷
駿府の中心部から離れた一帯、沓谷と称される地に昼でもなお薄暗い森がある。かつては竜雲寺の境内に含まれていたものの、駿府が武田の占領下に置かれて間も無く没収され、新たに建立された『御結本社』なる神社の所領に組み込まれた森だ。
ごく限られた人間のみ立ち入りを許されたこの森の奥に、古びた一軒家がある。屋内には、囲炉裏の焚き火を明かり取りに、複数の書状に目を通す女がいた。
引き締まった体躯を町人風の装いで包み、猛禽のような鋭い眼差しで書面をなぞるのは二之丸七緒…かつて今川を支えた非公式の忍び集団、『沓谷衆』の筆頭である。
「時は正に武田の春、か…朗報をお伝え出来ないのは心苦しいが、虚言で糠喜びをさせる訳にも行かぬ。ありのままをご両人にお伝えしよう。」
そう呟くと、七緒は文房具一式――紙、筆、硯を手元に揃え、複数の書状と手元との間で視線を往復させながら、紙面に筆を走らせていく。そして紙の端から端まで文章で埋めると、溜息とともに緊張を解いた。
「これで良し、と…しかしやはりと言うべきか、友野屋への悪口雑言が多いな。」
(だがそれは、友野屋殿ご自身が望まれた事でもある…その筈だ。)
自らの推理に誤りが無いかを検証すべく、七緒は意識を記憶の中へと潜らせた。
あえて叙情的な表現を用いるならば、沓谷衆の母は寿桂尼であり、父は戦国乱世そのものだった。
今川義元が腹違いの兄弟と家督を巡って争った「花蔵の乱」、程なくして北条が河東(かとう=駿河国東部)を制圧して勃発した「河東一乱」…相次ぐ戦乱は大量の戦災孤児を生み出した。
親兄弟と生き別れ、その日の寝食にも不自由する子供達に救いの手を差し伸べたのが、今川義元の義母であり、一連の戦乱の当事者の一人とも言える寿桂尼だった。
子供達の中には反発を覚える者も少なからずいたが、夜露をしのげる家、簡素ながら朝夕の食事、真新しい服に自ら生計を立てる術を身に付ける手助けまで面倒を見られたとあれば、恨み言よりも感謝の念が先に出るようになった。
やがて独り立ちを果たし、東海道一帯へと散った元孤児達は、ある者は農民、ある者は行商人、ある者は旅芸人など、各々の才覚を活かす道を選んだ。そして育ての親である寿桂尼に宛てて、不定期に近況を知らせる手紙を送っていたのだが――この手紙がいつしか、今川の政治、軍事上の判断材料になっていく。やがて、寿桂尼の要望で元孤児が軍勢の状況を探るような事例も増えていき…『それ』は自然と諜報機関の体を成すに至った。
沓谷衆の特徴は主への強い忠誠心と、地域に根差した情報収集力である。逆に言えば直接的な戦力としては並の雑兵足軽以下であり、それゆえに表立って評価される事は無かった。
皮肉にも、今川の没落に際して沓谷衆を救ったのはその目立ちにくさだった。
沓谷衆の構成員に関する情報は裏社会においても知る人ぞ知る所であったため、駿河を制圧した武田に摘発された者は未だ一人としていない。
それを後押ししたのが、駿河国における『最後の聖域』――沓谷の森だった。
(上総介殿(今川氏真)と御前様(結)が駿府から落ち延びて間も無く、友野屋は武田に降り…牢人衆を組織して残党狩り、寿桂尼様がお住まいであった竜雲寺境内の押領と、武田四つ菱の手先となって働いて来た…表向きは。されど、牢人衆が取り締まっているのは外国から入る密偵のみ…沓谷衆は野放し同然になっている。しかも、沓谷の森が竜雲寺から御結本社の預かりになったとて、沓谷衆は抜け道を使えば自在に出入り出来る。)
加えて先だっての『例大祭』だ。
今年の3月24日に開催された御結本社の例大祭は、友野宗善が駿河、甲斐、信濃の武田家臣を招いて盛大に実施したが、この日は寿桂尼の三回忌だった。
巷では、今川の権威を貶める宗善の策略と専らの噂だったが、七緒の見立ては違った。
御結本社に警備が集中している隙を突いて、竜雲寺にて三回忌法要を執り行う事が出来たからだ。
「友野屋は今川の仇、忘恩の輩…そうお知らせすればよろしいのですね?友野屋殿…。」
自身が書き連ねた書状から、囲炉裏の炎を透かし見ながら、七緒はそう呟いた。
某子供向け忍者アニメの銭好き忍者見習いも、戦災孤児という設定だと知って驚きました。
拙作の世界観は、どちらかというと「忍びの国」(2011年、和田竜)に近いかもしれません。
色々と救いがある分、拙作の方が甘々だとは思いますが。




