#124 戦国聖域伝説-Nagashima-(後)
当時の河内長島は無理に屈服させるより利用した方が得、という認識の人が多かったと思います。
信長に岐阜から追い落とされた斎藤龍興も一時的に長島に身を寄せたらしいので、困った時の長島、みたいに当てにされていたのではないでしょうか。
「弾正忠殿が河内長島を根切り(皆殺し)にする…真にございますか?」
高天神城を主題に話していた筈が、急に河内長島に焦点が当たった事に驚きながら、私は慎重に聞き返した。
河内長島は宗教法人経済特区とでも称するべき、戦国日本でも特異な地域だ。美濃国から流れて来た幾筋もの川が伊勢湾の直前で合流しており、そこに浮かぶ幾つかの島で構成されている。
伊勢、尾張、三河、美濃の中継地であるこの地には、浄土真宗本願寺派(いわゆる一向宗)の寺院、願証寺を中心に人が集まり、どこの大名にも属さない海洋都市と言っても過言ではない程の人口密集地が誕生した。
だが、『それ』は大阪の堺のように、純粋に経済的利益を追求する集団ではない。戦で農地を追われた百姓農民、没落を余儀なくされた侍、戦場から戦場へと渡り歩く牢人など、様々なバックボーンを持つ人々から構成されているのだ。
そして四年前、石山本願寺に同調した長島一向一揆が武装蜂起。警戒に当たっていた小木江城に攻め込んで、城将にして信長の弟、信興を切腹に追い込んだ。
その落とし前を着けさせるため、信長は二度に渡って大軍を動員し、攻め込んだ…にもかかわらず、河内長島全域の制圧には至らなかった、という次第だ。
「話を聞く限り、河内長島は要害堅固…急な思い付きで攻め滅ぼせるとは思えませんが。」
『あの』戦国の革命児、戦争の天才たる信長が二度も攻略に失敗した。
その事実は、長島の攻略は不可能も同然、と私に思わせるのに十分だった。
「否、この策は急な思い付きゆえにこそ実を結ぶ…伊勢、尾張、三河、美濃の米の相場はどうなっておる。」
宗誾殿の問い掛けに背筋が粟立つ感覚を覚えながら、資産運用の一環で食い込んでいた米相場の、ここ半年間の動きを思い返す。
昨年秋に収穫された米のざっくり半分は、銭を求める人々の手によって市場に流れた。
それからしばらくの間、先を見越した商人や資産家(私を含む)によって売買取引が行われ…春頃から武士や農民が買い手として名乗りを上げ始めた。武士は戦に兵糧米が必要になるからで、農民は備蓄が怪しくなるからだ。
そこに衝撃を与えたのが武田勝頼の高天神城包囲…当然徳川と織田は領国一帯で米を買い漁った。
しかしその後、織田徳川は武田との即時決戦とはならず…岐阜から遠江にかけて大軍が駐留する状況が長く続いた。需要を見越した伊勢や尾張の商人が西国から米を取り寄せているが、米価は高騰したままで、下がる様子が一向に見えない。
信長が岐阜に引き上げれば、特需は去ったという見方が広まって、米価も急落すると思うが…。
「まさか河内長島の一揆衆は、米相場の移り変わりで弾正忠殿の動きを読んでいたと?」
河内長島には伊勢湾一帯の経済活動に通じている人間も相当数いるだろう。これまで信長が長島攻めを準備した際には、米市場も大きく動いただろうから、織田家の大規模な軍事行動が近い事もすぐに察知出来た筈だ。
だが今回、信長は『高天神城の後詰のため』兵糧米を買い漁っており、当然その全てを消費してはいないだろう。それに、勝頼と一戦を交えてすらいないのだから、将兵はほぼほぼ無傷のままだ。
にもかかわらず、信長が岐阜に引き上げたからと米相場が落ち着けば…河内長島の警戒は一気に緩む?それが信長の狙い?
「弾正忠殿の所業を人伝に聞いたが…浅井朝倉に肩入れしたからと、叡山(比叡山延暦寺)を焼いたそうではないか。」
「やはり、神仏を疎んじるがゆえにございましょうか?」
合理主義者、信長なら目に入る神社仏閣を片端から打ち壊していても不思議じゃない…そんな私の予想に反して、宗誾殿は少し不思議そうな顔で首を横に振った。
「いや…兄弟や股肱の臣に報いるためであろう。弾正忠殿は熱田や伊勢に詣でておるし…神仏を疎んじておる訳ではあるまい。」
私は気まずくなってうつむいた。
また『これ』だ。前世から持ち越した知識…いや、先入観?と、実際に戦国武将と関わった時のギャップが大きい事が稀によくある。
「岐阜と長島は10里(約40キロメートル)と離れておらぬ。弾正忠殿にはさぞ目障りであったろう…この好機、逃すとは到底思えぬ。」
「かしこまりました。ただ…沓谷衆はその土地に根差す生き様を本懐としてございます。弾正忠殿が攻め入ると知れば、周囲に触れ回るやも…。」
「…確かに。すまぬが何かしら、名分を考えてもらいたい。現地の者達が半年ばかり長島を空けても不審を抱かれぬように、な。」
「承知いたしました。」
頭を下げながら、ちくりと胸が痛むのを感じる。
私が情報をリークすれば、長島の一揆衆は信長の進攻に備えて守りを固め、防衛戦に再び勝利する事が出来るかも知れない。そうすれば、比叡山延暦寺のように老若男女、戦闘員も非戦闘員もお構いなしに皆殺しという事態は免れるかも知れない。
だが…それでどうなる?
織田と長島が仲直りして、みんな平和に暮らしました…そんな結末はまず有り得ない。両者はもう、妥協の余地が無いレベルにまで対立を深めているのだから。
それをどうにか軟着陸に持って行こうとすれば、私は相当な努力と、犠牲を求められるだろう。私が損をするだけならまだしも、家族に累が及ぶ事になるとしたら…考えるだけで恐ろしい。
だから…私は見て見ぬフリをする。大事な家族と、平穏な生活を守るために。
つくづく自分は英雄の器ではないと、私は自嘲の笑みを浮かべるのだった。
米相場の推移に関する記述は筆者の妄想です。
ただ、原則として軍備の充足に時間をかければかける程、ヒトやモノの動きから軍事行動のタイミングや目標を掴まれやすくなるので、総大将は身内にも最終目標を伝えなかったり、準備が不十分でも速度重視で出陣したり、といった策を駆使していたようです。




