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#123 戦国聖域伝説-Nagashima-(前)

ちょっと時間が飛んで6月に入ります。

天正二年(西暦1574年)六月 遠江国 浜松


「只今戻った。」


 浜松の屋敷で出迎えた宗誾殿は、表情こそ穏やかだったが、動作の端々から疲労感を滲ませていた。


「お帰りなさいませ。…折角の後詰(ごづめ)が徒労に終わったとの事、何と申し上げればよいか…。」

「確かに、無念ではあるが…いや、まずは茶を()ててくれぬか。」

「はい、直ちに…。」


 高天神城、織田徳川の救援を待たずして開城…脳裏で反響する凶報に、私は思わず顔をしかめた。




 高天神城は遠江国東部、かつて私達が籠城した掛川城の南に築かれた山城であり、現在進行形で武田と徳川との激しい争奪戦の渦中にある。今川が没落してからは徳川、信玄が進攻すると武田、そして信玄の死去によって再び徳川へと、目まぐるしく所属先を変えて来た。

 その高天神城が武田勝頼率いる軍勢に包囲された、というバッドニュースが浜松に届いたのが先月中旬の事、だったが…家康は後詰(救援)のために動員令を出したものの、なかなか浜松から動こうとしなかった。いや、動けなかったと言うべきか。

 武田信玄と勝頼父子の度重なる進攻により、今の徳川は三河遠江の全域を掌握出来ていない状態にある。一方武田は、甲斐、信濃(北部の一部除く)、西上野、そして駿河と、およそ四か国に動員をかける事が可能だ。

 双方の国力を正確に把握している訳でもないのでハッキリとした事は言えないが、かつて東国有数の経済力を誇った駿河を武田が押さえている以上、家康が単独で高天神城の後詰に向かっても、三方ヶ原の再現にしかならないだろう。

 そこで家康が応援を要請したのが同盟関係にある信長、だったのだが…その動きは信じられないほど緩慢だった。

 遅くとも今月初めには「高天神城包囲」の知らせが届いた筈なのに、岐阜城から出陣したのは14日、17日に東三河の吉田城に入り、翌々日にようやく浜名湖を渡って浜松に入る…という所で、高天神城が武田の手に落ちた、という知らせが届いた。

 早い話、信長は高天神城の後詰に間に合わなかったのだ。

 ようやく武功を立てる機会が訪れたと、宗誾殿が赤羽陽斎殿を通じて集めた足軽も、兵糧も、武具も…全て無駄に終わってしまった。




弾正忠(だんじょうのちゅう)殿はいかがなさったのでしょう。真に徳川との盟約を果たす積もりはあるのでしょうか。」


 茶室で宗誾殿にお茶を点てている内に苛立ちを募らせた私は、他人の耳が無いのをいい事に、信長への不信感をぶちまけていた。


「うむ、評定でも弾正忠殿の誠意を疑う声が多く聞かれた。御屋形様(いえやす)が真意を問い質すべく、吉田城で弾正忠殿と会われるそうじゃ。されど…その場では口に出せなんだが…弾正忠殿の気持ちも分かるような気がする。」

「え?」


 間抜けな声を漏らす私に、宗誾殿は虚空を鋭い目で見据えながら続けた。


「弾正忠殿は四方に敵を抱えておる…今年の初め、武田四郎に東美濃まで討ち入られたとあれば、本領の備えも(おろそ)かに出来ぬ。岐阜城出立に時を(つい)やしたは諸方の防備を固め、兵を集めるに時を要したため…三河に入ってからも足が遅かったのは、西方の情勢が気懸かりであったがゆえ、であろう。『我ら』徳川には迷惑千万ではあるが、弾正忠殿も(ゆえ)無く御屋形様を(しいた)げている訳ではあるまい。」


 …そうだ。

 宗誾殿はかつて三か国を束ねる今川家の当主として、一万、二万を数える軍勢を率いていた。そして戦略上の優先順位から、結果として家康を見捨てる決断を下した事もあった。

 だから信長の窮状が手に取るように分かる…。


「それに…弾正忠殿もこのままでは終わるまい。」

「…と申されますと?」

「まず確かめておくべき儀があった…河内(かわうち)長島(ながしま)にも、沓谷衆の手の者はおるのか?」


 質問を質問で返すかのような宗誾殿の言葉に若干むっとしながら、記憶を探る。

 正確な人数や構成は宗誾殿にも易々とは明かせないが、河内長島には五人が潜伏している。


「はい、幾人か…。」

「今の内に、住処(すみか)を変えるよう申し渡した方がよいであろう…儂の読みが正しければ、じゃが」


 宗誾殿は短く息を吸って、世間話のように続けた。


「河内長島は根切りにされる。弾正忠殿の手によって、な。」

武田勝頼の高天神城包囲→信長の後詰失敗→長島一向一揆殲滅戦、という流れは、藤本正行先生の「信長の戦争」(講談社学術文庫、2003年)での研究による所が大きいです。

どうしてそうなるのか、は次回ご説明出来ると思います。

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― 新着の感想 ―
結は激怒した。必ず、かの邪智暴虐の弾正忠を除かなければならぬと決意した。結には政治がわからぬ。結は、北条の姫である。株券を撒き、商人と色々企んで暮して来た。けれども銭に対しては、人一倍に敏感であった。…
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