#121 韮山からの来訪者(中)
序盤、やや生々しいというかエロティックな記述があります。
直接的な表現は全くございませんが、念のため。
江川一族は、小田原北条氏の開祖たる北条早雲殿が伊豆の国主の地位を掴み取った頃に京都から下向した、酒造りを生業とする一門だ。北条家の上層部が安全で美味しい清酒を楽しめるのは、彼らが韮山で代々お酒造りを続けて来てくれたからに他ならない。ただお酒を造るのみならず、韮山周辺の村々の代官を務め、年貢の徴収等も担当している特異で多才な一族である。
で、その一員たる江川孫太郎――諱は英長――殿がどうして浜松にいるのか。氏規兄さんの手紙には、その辺りの経緯が簡潔に記されていた。
英長殿は父の又太郎…英吉殿の長男ではあるが、嫡男ではない。
英吉殿が16歳の時に――もうこの時点で頭が痛い――正妻以外の女性との間にもうけた、庶長子である。
英吉殿と正妻との間に嫡男が産まれれば厄介者扱いされる事請け合いの微妙な立場にあった英長殿は、武士の一般的な成人年齢である15歳を待たずして元服。氏政兄さんの後継者候補筆頭たる国王丸殿の供回りに加わった。
そして先月…同僚と口論になった挙句、小田原城内で抜刀。相手をぶった斬って逃亡、韮山に逃げ帰って引きこもっていた所、氏規兄さんがとりなしてくれたお陰で国外追放処分という事で話がまとまった。
で、追放先だが…どうして同盟国の武田ではなく、公的には敵対関係にある徳川になったのか、ここまで読んでも分からない。と、そんな私の疑問に答えるように文章は続いていた。
…英長殿には甲斐信濃よりも三河遠江の方が馴染むと思ったからって、結局意味不明である。しかも、英長殿を召し抱えれば徳川に末代までの利益をもたらすだろう、って…幾ら何でも大袈裟では?
「お待たせしました。是非宗誾様にもご一読いただきたく…。」
「相分かった。」
私からのパスを快く受け取ってくれた宗誾殿に手紙を渡し、読んでもらっている間に英長殿への対応を考える。
現状、当家は所領が無く、徳川家のお世話になっている。朝比奈泰勝殿を始めとした郎党を養っていくのがやっとの状態で、英長殿を家臣として迎えるのは難しいだろう。そもそも『徳川への』国外追放だし。
だが、一方で…徳川家における英長殿の処遇について、家康に提案する義務が私達にはある。
英長殿は氏規兄さんの指揮下にある江川家の一員で、私達が移動手段として利用した大和黒船に乗ってやって来た。これに「私達には関係ございません」という態度を取るのは、不義理が過ぎるだろう。
江川家が――あえて言おう――日本のどこにでもいる武家ならともかく、酒造りという特殊技能に秀でているとなれば、家康も通り一遍の扱いはしたくないだろうし。
「成程のう…北条助五郎殿は貴殿を高く買っておいでのようじゃ。」
氏規兄さんの手紙を読み終えた宗誾殿は、英長殿に微笑を向けた。
「今の儂は見ての通りの有様、なれど…北条には大いに世話になった。江川酒は無二の美酒であったしのう。貴殿の望みが叶うよう、能う限り手を尽くしたいが…何ぞ三河守殿に口添えすべき事はあるかな?」
「別に。」
…は?
危うく低い声が出る所だった。
宗誾殿は家康の元主君、しかも亡国の暗君という汚名を背負っており、現状家中での地位は安泰には程遠い。立ち回りを誤れば処罰される可能性すらあるのだ。
そのリスクを承知の上で英長殿を推薦してくれる、と言っているのに、何を反抗期みたいな態度を取っているんだ、このガキは。
「宗誾様、よろしいでしょうか。」
「――ッ、あ、ああ…程々に、頼む。」
私の意図をすぐさま汲み取ってくれた宗誾殿に心の中でお礼を言いながら、英長殿に向き直り、目に力を込める。ややあって、視線に気付いたのか、英長殿がこちらに視線を向け、ビクッと肩を震わせた。
「な…なな、何か?」
「お気になさらず。孫太郎殿とお目にかかるのもこれが最後かと、名残を惜しんでいただけにございます。何しろ…下田に帰っていただくのですから。」
江川英長が一時的に家康に仕えていた、というのは事実ですが、そのきっかけや時期について正確な所は分かりませんでした。
「同僚と口論になった」のは間違いないとして「斬りつけて」「殺した」のか、徳川の傘下に入ったのは天正何年の事なのか…不確かな部分を妄想で補完させていただいております。




