#115 岡崎の三人(前)
初めて「イクゾー!」というやつを使ってみました。
使い方が合っているかどうか、ちょっと不安です。
天正元年(西暦1573年)十一月 遠江国 浜松
今だから言えるが、私は宗誾殿の移住計画を全面的に支持していた訳ではない。移住先との調整も、入念な準備も無しに早川郷を出て、家康に浜松への居住を許されたとしてその先やっていけるのかと、不安に思った事は何度もあった。
ただ、宗誾殿や家族と生き別れになるのが嫌だ、という気持ちを大事にした結果、ギリギリの綱渡りをやり遂げて今ここにいるのだが…その決断は正しかったと言えるのだろう、今の所は。
瀬戸屋から借り入れた軍資金を元手に資産運用しつつ、新居の完成を待っていたある日、浜松の沖合に再び大和黒船――疾風号が現れた。
そこから小早に乗り換えて浜松に上陸したのは、雛菊、小春、青桐を始めとした私の側付き侍女達と、臼川越庵先生率いる医師団。それに厨人や使用人など、早川郷の屋敷で働いていた面々だった。
「うおお~ん!御前様ぁ、お会いしたかっただよ~!」
何年経っても熊や牛のような体型とパワーを保ったままの侍女、お栗が背中と両手にでっかい荷物を抱えたまま浅瀬を割って前進して来る様子を見て、浜辺まで迎えに出ていた私は目頭が熱くなるのを感じた。
お栗は側付きの中でも古参で後輩の面倒見も良いのだが、時に冷徹な判断を迫られる管理職には不向きと判断されたため、パートリーダーのような立ち位置に落ち着いている。シフトに融通も利かせてくれるため、ある意味管理職より有難い存在だ。
「雛菊、小春、青桐、お栗…みんな、浜松まで来てくれて本当にありがとう。」
「御前様、お顔をお上げください。寿桂様より後事を託された以上、どこまでもお供いたします…と申し上げたい所ですが、侍女や使用人が幾人か小田原に残ると申しまして…。」
フツーに小早が着岸してから砂浜に降りた雛菊が、申し訳なさそうに言う。
上陸中の顔触れを見ると、確かに早川郷の屋敷に務めていた全員が来てくれた訳ではなさそうだ。
特に紬の側付きに欠員が多い…小田原で新規採用した子が多かったのは無関係ではないだろう。
「そう…次の務め先に宛てがあるのなら、それで良いのだけれど…ともかくこちらへ。新しい屋敷が五分ほど出来上がったの。ゆっくり体を休めて頂戴。」
こうして新居と、そこで働く人手とに目途が立った…ので、次に行かなければならない所がある。
岡崎だ。いい加減、岡崎へ挨拶に行かなければ。
「あ…御前様、助五郎殿から文をお預かりしております。」
『疾風号にぎりぎりまで人や物を載せたので、水や食糧が心許ない。そちらで用立てておいてくれ。』
岡崎へ挨拶に行かなければ…疾風号に補給してから。
さて、家康のお墨付きにポケットマネー、マイホームと、以前と同等の暮らしが整って来たが…やっておかねばならない事がある。
徳川家の奥向きに筋を通す…要するに家康の正妻、瀬名殿への挨拶である。
俗に言う表向き…政治や軍事を男性当主が担当し、奥向き…日々の生活に関わるアレコレを正妻が担当する。かつて私も通った道だ。
となると、徳川に帰参する意思を明確にしたからと言って、家康にだけ挨拶を済ませても不十分という事になる。奥向きの責任者である瀬名殿、未来の後継者たる信康殿、場合によっては信康殿の妻で信長の娘である五徳殿にも面会してご機嫌を取っておかないと、後々面倒な事になりかねない。
出来れば家康のすぐ後にでも面会したかったが、三人は岡崎に居住しており、私も十分なお土産を用意出来る状況ではなかった。
へそを曲げられては厄介なので、マメに手紙を送ってご機嫌伺いに終始して来たが…新居の完成に目途が立ち、瀬戸屋から借り入れたお金で資金に余裕が出来た今こそ、直接面会して頭を下げて来る好機だろう。
という訳で、三人へのお土産を引っさげて、いざ岡崎へイクゾー!デッデッデデデデ、カーン!
数日後、私は岡崎城の謁見の間で一組の夫婦と対面していた。
「貴女があの『相模御料人』?…あはっ、拍子抜け。北条政子の生まれ変わりが聞いて呆れる…」
「五徳、よさぬか…早川殿、とお呼びしても?お久しゅうござる。駿府にありし頃に面倒を見ていただいた事、今もかたじけなく…」
「三郎様!徳川の嫡男ともあろうお方が、軽々しく頭を下げてはなりませぬ!」
初対面から高飛車に振る舞う五徳殿と、微妙な政治的パフォーマンスに疎そうな信康殿。
一筋縄では行かなそうなカップルを前に、私は気を引き締めたのだった。
拙作の「五徳殿」はまだ色々と未熟な貴婦人のタマゴ、というイメージで書いています。
過度に腹黒い訳でもないけれど、マナーや駆け引きに慣れていない…いわゆる悪役令嬢に近いでしょうか?




